9月20日20時55分、若菜は誰もいない三鷹病院の正門前にいた。手違いとかなら縁が無かったということだし、もし何か理由があって再面接を受けれるなら、もう一度挑戦したいと思ったから。アルバイトを早めに切り上げ、一度帰宅して身だしなみを整えると、三鷹病院に向かったのである。
21時、待ち合わせ場所となっていた正門前には人の影すらない。やはり何かの手違いだったのかなと思いつつも、あと10分だけ待ってみることにした。10月近くになり、流石に夜は少し肌寒かった。
21時10分、景色は変わらなかった。やはり何も無かった、縁が無かった…帰ろう…そう思ったときであった。
若菜を呼ぶその声に振り返ると、思わず叫びそうになった。目の前に現れたのは、この病院だけでなく、母体である学校法人の理事長でもある沢村ゆかり氏であった。
「は、はい!よろしくお願いします!!」
半ば放心状態の若菜は答えた。恋愛相談医に限らず、何か他の職種で空きが出て、その補充面接くらいはあるのかなと考えてはいたが、理事長が直々に面接に呼ぶとは想像すらしていなかったからだ。
呆然とする若菜を理事長は部屋まで案内し、秘書に温かいお茶を出すように指示した。そして、用意したソファーに座るように若菜に言うと、自分も向かいのソファーに腰を掛けた。
「寒い中待たせてごめんなさいね、私があなたを面接に呼んだの。本当はこんな時間じゃなくて、ちゃんと昼間にやってあげたかったけど…堅物の副院長が確実に留守なのが、今日のこの時間しかなくてね。」
理事長がそう事情を説明していたとき、秘書さんがお茶を持ってきた。なんでも、理事長のお気に入りである静岡産の茶葉で淹れたお茶らしい。勧められるままに若菜はそれを口にした。
目の前で展開されている出来事に混乱し、味などほとんど分からなかった。それでも、適度に暖かい緑茶のおかげで、冷えてきていた体が温まってくると、緊張はほぐれてきた。少しホッとしたような表情の若菜を見て、理事長は面接の経緯を再び説明し始めた。
「さて、もう知っているでしょうけど、あなたは正式な面接では不採用だった。だけど、面接資料や院内のカメラで見たあなたに興味がわいてね。理事長枠も3人ほど余裕があるし、こうして無理をお願いして来てもらったの。」
通常ではない状況にまだ少し戸惑いつつも、若菜は徐々に今の状況を理解してきた。そして今、一度は失ってしまった夢へ挑戦権が再び与えられていることも。
面接というよりは、談話とでもいえるような雰囲気の中、理事長は若菜にいくつか質問を投げかけた。普段はどんな生活をしているのか、初恋はいつ・どんな状況であったのか、最近の恋愛話はどんなものがあるのか、と。
若菜はそれぞれの質問に対して
「普段は学校とウエイトレスのアルバイトが中心、大学では『恋愛時におけるココロと行動の変化』をテーマに研究をしている」
「初恋は幼稚園のとき、幼馴染の智治君が相手。小学校に上がる際、彼が引っ越してその恋は終わった」
「高校の部活動の先輩が一番最近まで付き合っていた人。先輩の海外留学で遠距離になってしまうために友人関係に戻った。半年前からお互いに紹介した友人同士が付き合い始めた。」
理事長は恋愛話になると特に目を輝かせる若菜の答えを笑顔で、それでいて面接にふさわしい親近感と威厳のある雰囲気で耳を傾けていた。そして、核心について切り出した。
先ほどまでの穏やかな空気の中に、理事長のピリッとした雰囲気が伝わってきた。変化に飲まれることなく、改めて姿勢をただし、若菜は答えた。
「相談者の方の気持ちに寄り添い、前向きな恋愛を出来るように後押しできる、そんな恋愛相談医になりたいです。」
しばしの沈黙が2人のいる部屋を支配した…。理事長がどう考えてくれたかなんて分からない。でも、今できる最善は尽くした。どこか達成感に包まれた感情と、内定を出してもらえるのだろうかという気持ちが複雑に混ざりながら、理事長の言葉を待った。やがて、おもむろに席を立った理事長は、理事長席から厚い封筒を取り出して再び話し出した。
「はいこれ、採用手続きのための書類一式ね。あと、資格が無いから、他の恋愛相談医の方と比べてその分の手当額だけ下がっちゃうけど、それだけ了解してちょうだい。」
その場で内定が出たことに一瞬は驚き、それはやがて安堵感に変わった。やった…、来春からここで働けるんだ…。
「はい、ありがとうございます!よろしくおねがいします!!」
若菜は深々と頭を下げてお礼を言った。
「こちらの方こそ、来年からよろしく頼むわよ。さあ、面接はこれでおしまい。遅くまでありがとう。気をつけて帰るのよ。」
そう理事長が答え、面談は終了した。
駅に向かう道はすっかり暗くなっていた。しかし、街の街灯と雲ひとつ無い空に映える三日月は、どこか若菜を祝福しているかのように思えた。
日付が変わろうとしている頃、若菜が面接を終えた理事長室には、診療リハビリ科長が入っていた。理事長と対立する保守的な雰囲気が強い科内において、数少ない改革派の人物である。
「理事長…同じ理事長枠のあいつのもとで彼女を働かせるつもりですね。」
心配げに尋ねる科長に対して理事長はあっさりと答えた。
「あら、いいじゃないの。同じく心理系の資格が無い彼じゃないと、他の人じゃ育てようともしないじゃない。」
確かにその通りだ…。そう思いながらも、心配性が強い科長は続けて話した。
「しかし、彼女の採用は構わないと思ってはおりますが、あいつのもとで働かせるのはリスクが大きすぎると思います。確かにあいつは自分自身が治療に当たる際には名医、すなわち名選手であります。しかし、名監督ではありません。むしろその逆の傾向が強いです。この5年間で持たせた部下10人のうち、8人は半年も持たずに辞めてしまった…。」
そう心配する科長に対して理事長はあっけらかんとした感じで切り返した。
「それでも、残り2人はうちの学校カウンセラーのエース格として勤務してもらっているわ。果たして、彼女は多くの人のように折れてしまうのか、それとも…」
「名医として化けるか、ですか。あなたもなかなかの豪腕ですね」