映画ピーター・グリーナウェイ②「数に溺れて」(1988年)@シアター・イメージフォーラム | 明日もシアター日和

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観たもの読んだものについて、心に感じたことや考えたことなど、感想を綴ってみます。

 先に感想を書いた「プロスペローの本」の3年前に作られた映画です。始めてこれを観たときよく分からないところが色々あったんだけど、今回観て、やっぱりよく分からなかった😓 でも、そのよくわからないところも含めてなぜか「コレ好きだな」という感覚が残ります。グリーナウェイは最近のインタヴューで「プロットや物語には興味はありません」と言っていて、その一例みたいな作品に思える。絵面を楽しむものという、ね。

 

 ネタバレ概要→イギリスの海岸沿いの街に、祖母、娘、姪の3人が別々に住んでいる。3人とも名前はシシー。祖母シシーは夫が若い女と浮気しているのを見つけ、夫をバスタブに沈めて殺す。知り合いの検視官に伝え、心臓発作で急死したことにしてもらう。娘シシーは自分に関心を示さない夫を海で溺死させる。検視官は事故死にする。姪シシーは夫に飽きてプールで溺死させる。検視官はこれも事故死にする。検視官はその見返りとして3人のシシーとの肉体関係を望むがすべて拒否される。一方、殺された男たちの親族や知人らがその死を不審に思い3人のシシーと検視官を追い詰めるが、彼らはなんとか逃げ切る。3人のシシーは死んだ(殺した)夫を散骨するため、ボートに検視官も乗せて海に出る。彼女たちはボートの底の栓を抜いて海水を入れ、散骨したあと泳ぎ去る。検視官はそのままボートと共に沈んでいく。終わり。

 

 何なんだ?っていう話ですが😅 彼らの他に、上記の主筋とは直接関わらない少女がいます。バロック調ドレス姿で縄跳びをしながら星を100まで数えるという、なんともシュールな存在。また検視官の息子がいて、数のカウントや動物の死体や死を祝福するために花火を上げることなどが好き。大人たちは主筋とは関係なくいろいろなゲームを楽しむのですが、そのルールを説明したりもする。縄跳び少女が車に撥ねられて死ぬと、少年も自ら首を吊ることにし、自分の死を祝うために盛大な花火を上げます。何なんだ?って感じです😅

 

 他のグリーナウェイの作品がバロック風油絵だとしたら、こちらは19世紀の水彩画調風景が広がる世界観。いろいろなイメジャリーが組み合わされていて、特に死や水に対する執着がしつこく、そこに数字やゲームという遊び要素が加わります

 1から100までの数字が映像のどこかに現れる。最後に沈んでいくボートの船体には100という数字が書かれています。星を100まで数えたら再び1から数え直すことを繰り返す少女の事故死、「No.100」のボートに乗って水没する検視官、画面の中に100までの数字を探していく私たちも、そうやって「死」に近づいていく……💦 また、3人のシシーによって3回繰り返される溺死殺人、男の気を引いておいて突き放す行為、ゲーム(遊び)に夢中になる検視官、縄跳び少女の動きなどは「絵面構造」を強調するからくりになっているような。頻繁に出てくるゲームシーンは唐突なんだけど、突然訪れる人の死もゲームの結果のひとつにすぎないという、突き放したブラックユーモアを感じました。

 

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