ダイヤと学ぶフランス史~統領政府時代~ | あき@旅するトリコニコ会

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総裁政府末期の1798年、ナポレオンがエジプトに遠征の為フランスを離れている時、ヨーロッパ戦線ではフランス軍は反仏軍に押されていました(第二次対仏大同盟の結成)。

アレクサンドル・スヴォーロフ(1729~1800、帝政ロシア時代で3人しかいなかった大元帥の1人)率いるロシア軍(スヴォーロフ麾下の将軍にはのちにナポレオン戦争で活躍するピョートル・バグラチオン(1765~1812)、ミハイル・クトゥーゾフ(1745~1813)らがいた)は遥かイタリアにまで進出。しかしロシア軍はアンドレ・マッセナ(1758~1817、のち帝国元帥)率いるフランス軍が撃退しました。

ライン方面軍では司令官バティスト・ジュールダン(1762~1833、のち帝国元帥)がカール大公(1771~1847)率いるオーストリア軍に苦戦していました。このようなヨーロッパ情勢を知ったナポレオンは単身フランスに帰還。ブリュメール18日のクーデターを起こし総裁政府を打倒。自らを第一執政とする統領政府(3人の統領を首班とするが実質ナポレオン以外の2人は空気状態)を樹立しました。


第一執政となったナポレオンですが自ら軍を率い反仏軍と戦うことを決心。3万7千のフランス軍はサン・ベルナール峠を越え(この時の情景を描いたのが有名なダヴィド作『アルプス越えのナポレオン』。彼の下にある岩にはかつてアルプス越えを行った指揮官として古代カルタゴの名将ハンニバル、神聖ローマ帝国を建国したシャルルマーニュ(カール大帝)の名前がある。なお実際はナポレオンは馬ではなくラバに乗っていた)イタリアに侵攻。1800年6月14日、マレンゴの戦いでオーストリア軍に勝利。ライン方面でも翌年2月、ホーエンリンデンの戦いで勝利。この勝利により戦意を喪失したオーストリアは2月9日、リュネヴィルの和約の締結により対仏同盟から脱落。ロシアは1800年に講和しており残った英国も1802年にアミアンの和約を結び第二次対仏大同盟は崩壊しました。


ナポレオンは終身第一統領になると国家の基盤作りに奔走。1801年7月16日にはローマ教皇庁とコンコルダート(政教条約)を締結し関係を改善。1802年5月19日には現在でも続くフランス最高位の勲章レジオン・ドヌールを創設(日本人も伊藤博文ら多数受勲している)しました。一方でムチとして反対派を弾圧。自由主義者バンジャマン・コンスタン(1767~1830)や

批評家スタール夫人(1766~1817、銀行家ジャック・ネッケルの娘)を追放。軍部もジャン・モロー(1763~1813)の追放以外(後述するアンギャン公事件で追放された彼はのちにロシア軍の将軍となるがドレスデンの戦いでフランス軍の砲撃をうけ戦没した)内心支持はいていなくても表立って反抗する将軍はほとんどいませんでした。

1804年、ナポレオン暗殺の陰謀が発覚。犯人は王党派の一味で彼らはナポレオンを暗殺するとブルボン朝の分家にあたるコンデ家の出身であるアンギャン公ルイ・アンリ(1772~1804)にクーデターを仕掛けてもらい亡命していたルイ16世の弟、プロヴァンス伯ルイを王位に就けるというものでした。外相タレーランや警察大臣フーシェの主張もありナポレオンはアンギャン公始末に踏み切りました。アンギャン公はフランス国境に近いバーデン選帝侯国のエッテンハイムに逃れていましたがフランス兵はアンギャン公の邸宅を襲撃。形式的な裁判の後にアンギャン公は処刑されました。ですがこの陰謀は作り話でありもしないものだったとされています。

1804年5月18日、ナポレオンを皇帝とする議案が圧倒的多数の賛成により通過。12月2日、ナポレオンは皇帝に即位(ナポレオン1世)。第一帝政が成立しました。