
新井白石像
新井白石(1657〜1725 白石は号、諱は君美(きみよし))は主に6代将軍・徳川家宣期に活躍した政治家。
白石は久留里藩士の家に生まれたが父が藩主の土屋直樹と対立したため藩を追われた。白石は困窮しながらも勉学に励み古河藩主で大老の堀田正俊に仕えた。しかし堀田正俊が稲葉正休に刺殺される事件と堀田家の転封をきっかけに白石は堀田家を去り再び浪人となった。浪人中に朱子学を学び彼の力を見込んだ師匠の木下順庵の推挙をうけ甲府藩主・徳川綱豊に仕えた。
宝永6年(1710)、5代将軍徳川綱吉が死去。後継者となったのは綱豊で彼は名前を家宣と改め白石を幕政に起用。彼が中心となった政治は正徳の治とよばれた。家宣が亡くなり幼年の家継が7代将軍になっても側用人の間部詮房と共に幕政を担ったが家継が亡くなり吉宗が将軍となると白石は失脚し隠居に追い込まれた。

久留里城下と大女優

💧久留里神社です!
創建は治安元年(1021)。代々の久留里領主からあつく崇敬された。久留里の地名の由来ともいわれる(平頼胤(平将門の3男)がここを参拝した時に「城を浦田山に築き、久しくこの里に留まるべし」という託宣をうけた)。頼胤はこの託宣に従い浦田山に久留里城を築いたという伝説がある

日清・日露戦争記念碑
この地域だと佐倉の歩兵第2連隊(日露戦争後に水戸に移駐。代わって歩兵第57連隊が駐屯した)に入営したのだろうか

バスで東京に
写真は東京湾アクアライン

おまけ
米子城・内膳丸の御城印
内膳は米子藩家老・横田村詮(むらあき 1552〜1603)の通称。彼が中心となって築いた出丸なのでこのようによばれた
村詮は阿波国の有力大名・三好家の一族とされ三好家の滅亡後に中村一氏に仕え一氏の死後、徳川家康の支持もあり幼年の後継者・一忠の後見人として米子藩(関ヶ原合戦後、中村家は駿河府中から伯耆米子に加増移封となった)の基礎を築いた。しかし彼の才能を妬んだ一忠の側近達の讒言を信じてしまい村詮は殺害されその息子の主馬助も討ち取られた。
村詮の死を知った家康は激怒し首謀者を即刻切腹に処した