ダイヤと学ぶお家騒動~お由羅騒動~ | あき@旅するトリコニコ会

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近思録崩れをきっかけに薩摩藩主となった斉興ですが嫡男の斉彬になかなか家督を譲りませんでした。なぜなら斉彬は蘭癖の祖父・重豪によく似ておりせっかく自身が財政改善を成し遂げたのにまた散財かまして再び財政が悪化することを恐れたためです。そのため斉彬は40歳になっても藩主になれませんでした。
それを見た斉興の側室・お由羅の方は自身が腹を痛めて産んだ息子・久光を藩主にしようと画策していました。

斉彬派には若手藩士や老中・阿部正弘がいました。阿部は海外の情勢に明るい斉彬を高く評価していました。それに対し久光派には藩重臣達がおり藩の財政再建を主導した調所広郷(ずしょ・ひろさと。通称は笑左衛門)が代表格です。嘉永元年(1848)、斉彬派が動きます。阿部に公然の秘密である琉球密貿易をチクったのです。琉球密貿易は江戸時代初期から公然の秘密としてやってはいましたがここで初めて公にしたのです。調所は幕府に呼び出され尋問をうけましたが間もなく急死してしまいました。これが斉興に及ばないように1人で罪をかぶって自害したのです。

斉彬派は調所の排除はできましたが斉興の引退はできずその翌年久光、お由羅及び重臣達を暗殺しようとしたという疑いで斉彬派藩士が逮捕され彼らは即日切腹と成りました。それをきっかけに斉彬派藩士らが続々逮捕・処罰(西郷隆盛の父親の吉兵衛はこの時切腹を命じられた赤山靱負(あかやま・ゆきえ)の介錯(切腹人のとどめを刺すために首を斬る者。罪人を苦しませず一刀のもとに首を斬るのはとても難しく介錯は基本的に剣術の達人が行った。失敗でもしようものならお家の名誉に関わるため剣の達人がいなかったらよそから連れてきてやらせることもあった)を務めており大久保利世・利通父子も連座し利世は鬼界ケ島に流罪となり利通は役職を解任された)され斉彬派は壊滅。斉彬が藩主になる線は無くなったかに見えましたが国外に逃れた斉彬派藩士が福岡藩に逃れ(藩主黒田長溥は重豪の息子)、長溥は弟の南部信順(陸奥八戸藩主)と共に阿部に事態の収拾を依頼。阿部は将軍徳川家慶を動かし斉興に隠居を勧告(この時斉興は家慶から茶器を賜った。茶器をもらう=隠居して茶道でもやったら?の意味)。まさか将軍の命に背くわけにもいかず斉興は嘉永4年(1851)に隠居し斉彬に家督を譲りました。ここにお由羅騒動はおさまりました。