ダイヤと学ぶお家騒動~白黒騒動~ | あき@旅するトリコニコ会

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小笠原家の祖は源義家の弟の義光で義光の系譜には武田信義、佐竹昌義、南部光行なとがいます。光行の兄の長清は父の所領である甲斐国小笠原郷(現在の山梨県北杜市明野町小笠原)を継承したことで小笠原姓を称しました。室町時代の当主・貞宗は足利尊氏に従いのちに信濃国守護に任じられました。しかし室町時代末期の当主・長時の時に同族にあたる武田晴信(信玄)の侵攻をうけ小笠原家は没落。それでも彼の3男の貞慶が織田信長と徳川家康に仕え彼の子孫は譜代大名として幕府内で重きを為しました。

江戸時代後期の文化4年(1804)、豊前小倉藩主・小笠原忠苗(ただみつ)が隠居。養子に入っていた忠固が藩主となりました。忠固は上昇志向が強く幕閣に連なりたいと思っていました。そこで江戸詰家老・小笠原出雲にわしは幕閣に入りたいのだと相談しました。しかし出雲は今は不審な外国船が多数出没しており関門海峡の防衛や幕閣に入るには多額の出費が必要(天保の改革を行った水野忠邦は幕閣に入るため実入りが多い唐津藩から出世城として有名だが唐津に比べ実入りが少ない浜松藩に転封を願い、そこから入閣工作を行い幕閣に入った)である、そして幕府の屋台骨が揺らいでいる時にわざわざ行く必要はないと主張。忠固はそれを最初は受け入れましたがのちに翻意。出雲に入閣工作をやるよう命じました。
結果としては出雲の予想通り多額の出費を要し藩の財政は破綻。これを見た何も知らない藩士は出雲は藩のお金を私する悪人と映り、出雲排除に動く者が出始めました。出雲暗殺には失敗したが彼の腹心が殺されたことから支持派と反対派の対立が激化。支持派は正義は我にありとし城をかけて「白」、反対派の一部が福岡藩領黒崎(現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎)に逃れたことから「黒」と見なし白黒騒動と呼ばれました。
やがてこの対立は幕府にバレてしまい出雲は家老を解任、反対派も一部の藩士が切腹、忠固も罪に問われましたが先祖の功労に免じて100日間の閉門(家の門扉や窓を閉ざし出入りを1日中許さない刑罰)となりました。

転封改易は免れたものの幕閣就任工作やその後の白黒騒動により小倉藩の財政は破綻。その後に就任した藩主も若くして亡くなる者が多く財政再建は進まないまま慶応元年(1865)の第二次長州征伐で高杉晋作率いる長州藩軍の逆侵攻をうけ藩兵は小倉城に火を放ち熊本藩領に撤退。戦争中藩主の死もあり藩は混乱。戦後小倉藩は新政府に恭順し明治維新を迎えました。