鎌倉殿の13人 3話解説~以仁王の乱~ | あき@旅するトリコニコ会

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保元の乱、平治の乱を制した平清盛は武家出身者として初めて太政大臣にまで昇進し平家政権が成立。一族の平時忠などは「平家にあらずんば人にあらず」とまで放言していました。朝廷も平家の急速な台頭に不満を抱き治承元年(1177)、大納言・藤原成親(平治の乱で義朝方に加担したが妹が清盛の長男・重盛の妻だったので罪に問われなかった)、左衛門大尉・平康頼(平家の出身ではない)、西光、俊寛らが平家打倒の陰謀を企てていたことが発覚。この鹿ヶ谷の陰謀により彼らは処罰され背後にいたと思われた後白河法皇との関係が悪化。

治承3年(1179)、堪忍袋の緒が切れた清盛はとうとう御所に乱入し法皇を幽閉に追い込みました。翌年、高倉天皇が退位し娘の徳子が産んだ皇子が天皇に即位しました。年齢わずか2歳のこの天皇は安徳天皇とよばれます。

 

同年5月16日、後白河法皇の第三皇子の以仁王が反平家の兵を挙げました。なぜ兵を挙げたのか正確な理由は分かっていませんがこの挙兵に平治の乱で同族である義朝に加担せず清盛に付いた摂津源氏の源頼政が加担しました。清盛は頼政を評価しライバルであるはずの源氏にも関わらず従三位という高位に上り「源三位」とよばれました。そんな頼政がなぜ以仁王に付いたのかも正確な理由は分かっていません。一説に驕り高ぶる平家の人間の嫌がらせともいわれています。

以仁王は決起の際に各地に逼塞する源氏一族に共に決起してほしいと手紙を書いておりその使者に義朝の弟で頼朝の叔父にあたる源行家に託しました。行家は北条家館にいた頼朝と対面し以仁王の令旨(皇太子の命令書。以仁王は皇太子ではないがこの形式にした)を伝えています。

当初園城寺を拠点といましたが平家が迫っていたことから反乱軍は奈良に移ろうとしますが5月26日、平家軍は宇治川で反乱軍を捕捉し合戦になりますが兵力は平家2万8千に対し反乱軍はわずか1000。ですが反乱軍は宇治川にかかる橋げたを外していたため橋が渡れず平家軍は苦戦。攻めあぐねていたところに平家軍にいた下野国出身の足利俊綱(のちに室町幕府を開く足利家とは別の一族)父子が宇治川を馬で渡って見せると宣言。麾下300騎は宇治川を渡り切ると反乱軍に強襲をかけると反乱軍は総崩れとなり敗走。源頼政は平等院で自刃(介錯した家臣は渡辺唱(わたなべ・となう)という人物で名前から頼光四天王の1人・渡辺綱の子孫と思われる)。一族郎党も皆討たれました。以仁王も敗走中に討たれたことで反乱は鎮圧されました。

 

反乱は失敗に終わりましたがこれがきっかけとなり反平家の兵を挙げる者が続出。その中には源頼朝や源義仲(異母兄の仲家は頼政の養子となり以仁王の乱で戦死した)などがおり義仲は以仁王の遺児を北陸で保護。「北陸宮」を旗印に押し立てた義仲は俱利伽羅峠の戦いで平家軍を殲滅。平家軍が逃れた後の京に入り支配者に君臨。彼は「旭将軍」とよばれます。

なお頼政の長男・宗綱も討死しましたが孫の宗重が親鸞の弟子になったことから浄土真宗に関わることになり子孫は「下間」を称し本願寺家の重臣となるとその中の下間頼龍の子・頼広は母の縁(母は池田恒興の養女)で池田輝政に仕え「池田重利」と改名。大坂の陣後、1万石を与えられ大名に昇格し摂津尼崎藩を立藩。寛永3年(1626)に播磨新宮藩(現在の兵庫県たつの市新宮町)に転封。しかし寛文10年(1670)、4代・邦照の代で嗣子無く新宮藩は改易となりました。ですが弟の重教が旗本となり存続を許されました。