比企能員は前回の比企尼の甥にあたり、男子に恵まれなかった比企掃部允と比企尼夫妻の養子となり家督を継ぎました。比企尼は頼朝の乳母(本能寺の変後、織田家をどうするかを決めるべく清須会議が開かれますが参加者は光秀を討った羽柴秀吉・筆頭家老の柴田勝家・次席家老の丹羽長秀と池田恒興の4人でした。池田恒興は古参の家臣だが格は3人には劣りましたが池田恒興の母は信長の乳母を務めており信長とは乳兄弟の関係だったため呼ばれていた。それほど乳母という立場は強かった)となり妻も頼朝の後継者・頼家の乳母(頼家が産まれたのは能員の屋敷)を務めるなど比企家は将軍家と密接な関係を築いていました。元暦元年(1184)、木曽義仲の子供・義高(妻は頼朝の娘・大姫で当時鎌倉に人質としていたが父・義仲が源義経に討たれると義高は頼朝に殺されると思い鎌倉を脱出。それを知った頼朝は追手を派遣し武蔵国入間(現在の埼玉県入間市)で義高は追い付かれ殺された)の残党の討伐軍に従軍し次いで対平家の討伐軍にも従軍。戦後、上野・信濃守護を兼任。奥州合戦にも従軍し頼朝の信頼厚い側近としての立場を固めました。
建久9年(1198)、娘・若狭局を頼家と結婚させ(正室ではなく側室)同年に息子・一幡が産まれたことで能員は外戚として強力な権力を握りました。翌年に頼朝が亡くなると能員も頼家を支える「13人の重臣」の1人となりました。建仁3年(1203)、頼家が病に倒れ一時は危篤状態となる事態となると北条時政は日本を頼家の弟・実朝(当時は千幡)と一幡に分割相続させようと動きました。しかしこれでは一幡、ひいては能員が権力を握れなくなると思い体調が若干回復していた頼家に時政が不穏な動きを見せているから討ち果たしたほうが良いと進言し頼家も同意しました。
しかし、この密談を聞いていた者がいました。母・北条政子です。政子は父・時政にこのことを伝えると時政は素早く動き政所別当(政治・財務を司る長官)で幕府重鎮・大江広元(戦国武将・毛利家の祖)の支持を取り付けると仏事にかこつけて能員を自らの邸宅に呼びつけました。密談の内容が漏れてることを知らない能員は行こうとしますが周囲はこれは時政の謀略だ、行ったら殺される、せめて武装して行かれてはと止めますした。しかし能員は仏事の相談で行くのに武装なんかして行ったらお前謀反するつもりかと怪しまれるから平服で行くと聞きいれませんでした。
平服でのこのこ向かった能員は時政の屋敷に入るなり時政の兵に襲われ天野遠景・仁田忠常によって討たれました。能員暗殺を知った比企一族は一幡を擁し抵抗を試みましたが北条家の軍勢によって一族はことごとく殺され一幡及び母・若狭局も亡くなりました。この比企能員の変によって比企家は滅ぼされ与党も処罰されました(島津忠久も母が比企家の者だったため(本当かは不明)与党と見なされ薩摩・大隅・日向の守護職を剥奪された)。比企一族粛清を知った頼家は激怒し時政を討てと命じますが命令書は時政によって握り潰され頼家は母・政子によって出家させられ伊豆修禅寺に幽閉同然の扱いとされ元久元年(1204)、入浴中に北条家の兵に襲われ23歳で亡くなりました。