「・・・・・・・はおやめください!駆け込まないでください!!」
最後の方は、はっきりと聞くことができた。スピーカーから放たれる駅員の怒ったような声。
ということは、ここは駅のベンチか?
俺はしらふのときの約25倍の質量を持つ瞼を努力してこじ開け、腕時計で時間を確認した。
23時30分。酔っ払って駅のベンチに座り、そのまま1時間位眠ってしまったようだ。
最終バスはとっくに出た後だ。俺はもう一度目を閉じた。
さあどうしよう。
どうしよう?
立ち上がって歩き、20メートル先の階段を登って改札を出るんだよ。それ以外にやることがあるって言うのか?
その通りだ。俺は意を決して目を開けた。
その少年は両手をジーンズのポケットに突っ込み、ホームの鉄柱に寄りかかるようにして立っていた。
サーフィンの図柄がプリントされた黄色いTシャツを着て、裾は色の抜けたジーンズにたくし込んである。
Tシャツの裾をズボンに入れている若者は、今時あまり見掛けない。
少年は俺を見ていた。
睨んでいるわけではないが、さげすむ様な冷ややかな瞳で、じっとこちらを見ていた。
直前の電車から吐き出された乗客達は、その大半が既に他のホームや改札に移動していて、このホームの人影は数えるほどだ。俺は軽い息苦しさを感じた。どうも飲みすぎたようだ。
俺はネクタイを緩め、ワイシャツの襟のボタンをはずした。新鮮な酸素を肺に送り込まなければならない。
少年には、絵に描いたような酔っ払いのサラリーマンに見えているに違いない。
少年は視線を俺から自分の足元に移し、寄りかかっていた鉄柱から離れた。
そして、もう一度冷ややかな視線を俺に向け、踵を返して歩き去って行った。
俺は、深呼吸をしてベンチから立ち上がった。
何かが足元でカタンといった。
ベンチの背もたれに立てかけておいた傘が倒れていた。
そうだ、今朝は雨が降ってたんだ。
俺はふらふらしながら傘を拾い、改札に続く階段に向かった。
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コッフェルの湯が沸いた。
インスタントコーヒーの粉を入れたカップに湯を注ぎ、ヘッドランプのスィッチをオフにした。
森の中のキャンプ場。
CB400SSのマフラーがキャンドルランタンの明かりを反射して、きらきらと輝いている。
より一層静けさを増したような感覚。
俺は熱いコーヒーをすすった。
お気に入りのキャンドルランタンが、その明かりが届く限りの空間に、幻想的ともいえる趣の世界を創出している。
小さな炎に照らされたあらゆるものは、昼間の矮小さとは打って変わって重厚な存在感を現し、さながらこの小宇宙のメンバーであることを、影を揺らして主張しているかのようだ。
俺は夜のキャンプ場の静けさと、アルコールがもたらすファンタジーを楽しんだ。
コーヒーを飲み終わり、ウィスキーのポケット瓶を一口飲んだ。
酔いが回ってきたようで、なんだかすごくいい気分だ。
軽快なエンジン音が遠くに聞こえ、それが徐々に近づいて来た。
少しすると、赤松や白樺の木々を縫って一台のバイクが姿を現した。
ライダーは俺のテントから5メートル程の場所にバイクを停め、エンジンを停止した。
暗くて良く見えないが、シルエットで分かった。
CB125JXだ。
ライダーはフルフェイスのヘルメットをとり、ミラーに掛けてバイクを降りた。そしてグローブを外しながら俺に近づいて来た。
キャンドルランタンの明かりが届くあたりまで来たところで、何かに躓いてちょっと前のめりになり、顔を上げて照れくさそうに微笑んだ。
その少年は、Tシャツの裾を色の抜けたジーンズにたくし込んでいた。
サーフィンの図柄が印刷された、黄色いTシャツだ。
少年は、俺のテントやらキャンプ道具やらを、珍しそうにまじまじと眺めた。
暫くそうしてからCB400SSに目を移し、そちらに近づいて行った。
少年はCB400SSのシートをポンポンと叩いた。そして俺を見た。
「400だ。」俺は答えた。
少年は俺を見ていた。
「跨っていいよ。だけどエンジンはかけるなよ。他にもキャンプしている人がいるか
ら。」
少年は嬉しそうにCB400SSに跨った。
両足をステップに乗せてハンドルを握り、ライディングポジションを確認したり、バイクをまっすぐに起こして両足を地面に付け、シートの高さを確認したりした。
少年は2回うなずいた。
タンクを撫でてCB400SSから降り、俺の方を向いた。
「ああ、お前のきらいなサラリーマンだよ。どっぷりとね。」俺は言った。そしてこう付け加えた。
「だけど、俺は、俺だ。」
少年はわずかに、頷いた。
少年は自分のCB125JXのところに戻り、オレンジのフルフェイスをかぶってバイクに跨った。
キーをオンの位置にしてキックアームを出した。
しかし思い直したようにキックアームを戻し、キーをオフにした。
顔を俺のほうに向け、満足げに笑った。あるいはそう見えただけか。
そして、バイクを押して赤松と白樺の木々の間に消えていった。
遠くの方でエンジンがかかる音が聞こえた。
エンジン音は徐々に高音になりながら小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。
俺はポケット瓶のウィスキーを一口飲んで空を見上げ、木々の梢越しに瞬く星を暫く眺めた。
そしてテントに入った。
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コーナーの出口でギアを1段上げ、徐々にアクセルを開いていった。
キャンプ場から程近い、早朝の県道。
右前方の林が途切れて視界が開け、道幅全体が朝の太陽光に照らされた。
南八ヶ岳の山々が、俺と一緒に移動していた。
俺はゆっくりと、CB400SSを走らせた。
文句なしの朝。
静かな森。
軽快なエンジン音。
俺は、ばかばかしいくらい上機嫌だ。
年月は何かを変えただろうか。
全てが変わったし、何も変わらない。
お気に入りのTシャツを着て、CB125JXを走らせていた17歳の頃の俺は、そのまま今
の俺だ。
二十数年が過ぎ去ったというのに、なんにも変わっちゃいないのだ。しかしそれが、気に入らないというわけでもない。
俺は朝の山道を、ご機嫌で走り抜けた。