この作品は、猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』を原作とし、NHKスペシャル枠で放送されたドラマ。アジア太平洋戦争の昭和20年の敗戦は、戦争開戦前の昭和16年時点で総力戦研究所により予見されていたというもの。
総力戦研究所とは、昭和15年(1940年)9月に設立された内閣総理大臣直轄の研究所。戦時の国家総力戦に関する調査研究のため、各省庁、陸海軍、民間企業から優秀な若手エリートが選抜された。メンバーは模擬内閣を組織して、軍事、外交、経済など各分野のデータを分析し、日米開戦を想定した机上演習(シミュレーション)を行い、「日本必敗」の結論が導き出された。その結論は近衛文麿首相、東條英機陸軍大臣らに報告されたが、それが国家戦略に反映されることはなく、日本は開戦へと踏み切る。
過去の歴史を検証することの意義は、過去の失敗を繰り返さないためにある。軍人230万人、民間人80万人の死者を出したアジア太平洋戦争は、明らかな失敗であり、その失敗がなぜ起こったかを探求することは未来に資することは間違いない。
開戦を未然に防ぐことができたかもしれない、あるいはできたはずであったということは、現在から振り返って日米の国力差を勘案すれば想像することはそれほど難しいことではないが、総力戦研究所の存在を知らなかった自分としては、情報が限定的だった当時、実に論理的な思考でその結論が導き出されていたことは驚きだった。
ではなぜ「日本必敗」の戦争に突き進んだのか。このドラマが史実に忠実である前提で、いくつかのポイントが指摘できるだろう。
まず印象的だったのは、海軍に比して陸軍が開戦に前のめりだったこと。陸軍の仮想敵国はソ連であり、海軍のそれはアメリカであったことから、陸軍の認識が海軍より甘かったことはあるだろう。また太平洋戦争に先立って、日本は中国大陸に侵攻していたが、それは陸軍主導の軍事行動。東京裁判において絞首刑に処せられた7人のうち、文民の広田弘毅を除けば(彼は第一次近衛内閣の外相であり、南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任を問われた)残りの6人は東條英機を始め全て陸軍将校だったことからも、「東京裁判史観」においては陸軍の責任をより重く問うこととも符合する。
しかし、その総大将東條英機の心の揺れを描いていたことは印象的だった。彼は昭和天皇の忠臣であり、昭和天皇があくまで戦争回避を希望したことから、開戦には大いに躊躇したことは間違いないだろう。彼が開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びていたとされる逸話の真偽のほどは確かではないが、彼がヒトラーやムッソリーニのような独裁者ではなかったということから生まれた逸話だろう。その彼をしてなぜ開戦に駆り立てたかは、まず45万人といわれる日中戦争(志那事変)の犠牲を無駄にすることは彼らの遺族のためにもどうしてもできなかったということ、そして陸軍内部、特に若い兵隊からの突き上げがあったこと、そしてこの作品にもあったが、民衆が開戦に積極的だったことが挙げられるだろう。
今日の我々はアジア太平洋戦争の敗戦の記憶により、戦争はなんとしても避けたいという心情がある。しかし、当時の人々の戦争に対する印象を想像するに、日清・日露戦争では連戦連勝、そしてヨーロッパが主戦場だった第一次世界大戦においても、日本は軽微な戦闘でドイツのアジアの植民地を占領した。つまり戦争は「やれば帝国軍人は必ずや勝利をもたらし領土を拡張する」と考えていたとしても不思議はないだろう。
そうした戦争に前のめりの軍部(特に陸軍)や民衆に突き動かされて、東條英機が昭和天皇の意向に逆らって開戦に至ったのであれば、どうすれば戦争を回避できただろうか。当時、軍部や民衆を抑えることができた唯一の存在は昭和天皇だったと考える。
明治憲法下においては天皇主権とされ、天皇は統帥権(内閣や議会の干渉を受けずに直接軍を指揮できる権限)を持っていたが、実質的には現在の国民主権の下での象徴的存在とさほど大きな違いはなかったと理解している。しかし昭和天皇は、昭和20年に開戦時よりも更に戦争継続に積極的だった軍部を無視する形で「聖断」により戦争を終結させている。彼がもし未来を予見していたならば、がむしゃらに開戦を止めていただろう。
そして、過去の歴史を検証することの意義に立ち返ると、今後の日本の状況において、もし(それは「big if」だが)戦争に突き進むとするならば、この作品が示唆することは、アジア太平洋戦争開戦時とは異なり軍部主導ということはなく(自衛隊主導は考えにくい)、アジア太平洋戦争開戦時と同じく民衆が前のめりになることがあり得るだろう。そして、アジア太平洋戦争開戦時には唯一開戦を止めることができた存在の天皇にそれを期待することは困難であろう。
台湾侵攻を他国への侵攻と考えず、自国の領土回復と考える中国による「台湾有事」はアメリカインテリジェンスによるとリアルな事象であり、それはロシアによるウクライナ侵攻と相似な事象だろう。そしてアメリカが世界の警察の役割を降り、自国偏重主義に舵を切っている以上、国家安全保障を真剣に考え議論する必要があることは間違いないだろう。
石井裕也監督作品としては、『茜色に焼かれる』、『ぼくたちの家族』や『舟を編む』といった映画作品の完成度には及ばないが、匹敵する熱量を帯びていたのは石井組の池松壮亮の熱演によるところが少なくないだろう。そして妖怪のような東條英機を演じた佐藤浩市と、風貌は昭和天皇に全く似ていないにも関わらず雰囲気は十二分に伝わった松田龍平の演技も印象的だった。
★★★★★★ (6/10)
NHKスペシャル公式X『シミュレーション ~昭和16年夏の敗戦~』
