『デューン 砂の惑星 PART2』 (2024) ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 | FLICKS FREAK

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いやぁ、映画って本当にいいもんですね~

 

前作『DUNE/デューン 砂の惑星』から3年の時を経て公開されたSF大叙事詩後編。結論から言えば、この作品は今年公開の映画の最重要作品の一つであり、前後編合わせてSF映画というジャンルにおける歴史的傑作であることは間違いない。

 

自分はフランク・ハーバートの原作は未読で、『DUNE』関連作品では、デイヴィッド・リンチ版『デューン/砂の惑星』(1984)とアレハンドロ・ホドロフスキー監督による『DUNE』制作中止に至るてんまつを描いたドキュメンタリー『ホドロフスキーのDUNE』(2013)を観たに過ぎない。その上で、前作鑑賞後、本作は前・後編を通して父を殺された息子のビルドゥングスロマン(成長譚)であり、マザコン的な主人公が、恋人を得て大人へと成長する物語だと推測した。前作の裏主人公はレディ・ジェシカだったが、本作の裏主人公はチャニだろうと予想した。その予想は概ね当たっていたのだが、展開は自分が思い描いていたものではなかった。

 

ポール・アトレイデスが、アラキスの先住民族フレメンの伝説にある「マフディー(楽園に導く者)」「リサーン・アル=ガイブ(外世界からの声)」となり、フレメンを率いて、アトレイデス家を滅亡させた宿敵ハルコンネン家に復讐すると共に、アラキスをフレメンの手に取り戻す物語であることは、デイヴィッド・リンチ版を観て理解していた。本作の前半部分、ポールがサンドワームに乗ることで、フレメンの一員とみなされ「ウスール」というフレメン名を授けられるところまでの展開は、まさに思い描いていたものだった。その前半の「上げ調子」の中では、チャニがポールをフェダイキン(フレメンの戦士)と認める過程で恋愛感情が芽生え、その二人の恋愛が重要なモチーフとなっていた。チャニがポールに惹かれたのは、彼がリサーン・アル=ガイブだからではなく、むしろ彼女はフレメンの伝説を信じていないという設定は、チャニが自我をしっかりと持った強い人物であることを物語っていた。そしてポールも「自分はマフディーではない」「フェダイキンとしてフレメンと共に戦う」と言い続けていたのが前半。

 

その前半の「上げ調子」が転調するのが、レディ・ジェシカが「命の水」を飲みフレメンの教母となって南に身を転じて以降。レディ・ジェシカが、ベネ・ゲセリットの一員としてのイメージを色濃く出し始めると、ポールとの距離が開き始める。そしてポールの予知夢は、彼が聖戦を率いることは多くの民の死につながり、チャニも失うことを映し出していた。そのため、南に同行せよというレディ・ジェシカの言いつけに従わなかったポール。そのポールが、結局南に行くことになってからの展開が自分には納得がいかなかった。自ら英雄譚を否定し一人の戦士であることを望んだポールが、なぜかリサーン・アル=ガイブを自認するようになり、胎児の妹アリアの言う「政略的な結婚」を選択するという展開が腑に落ちなかった。「命の水」を飲んだことがポールの心変わりのきっかけとはいえ、なぜそこまで変わるのかが分からなかった。

 

あまりにも納得がいかなかったので、数日後もう一度観ることにした。

 

二度鑑賞すると、見えてきたものと、それでも見えてこないものがあった。実のところ一度目の鑑賞時に一番引っ掛かっていたポールの心変わりに関しては、やはり納得がいかなった。それがそのままでもいいと思えたのは、本作の後半はチャニが「裏」主人公ではなく主人公そのものだと理解したため。勿論、フェイド=ラウサ・ハルコンネンとの決闘がクライマックスである以上、ポールはあくまで重要なキャラクターなのだが、「命の水」を飲んでから、ややもすると人間味を失っていくポールに対し、チャニは恋する一人の人間としての苦悩を全身ににじませていく。彼女の、それでもフェダイキンとして前に進もうとする気丈な姿に感動を覚えた。ポールの行動を理解したくてもできないという彼女の苦悩は、観客にとってもポールの心変わりが腑に落ちないこそ共感できるものがあるとさえ思えた。彼女の苦渋をたたえた表情を大写しにするエンディングは、一度目の鑑賞では泣くことはなかったが、二度目の鑑賞では涙を抑えることができなかった。

 

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督がこのSF大作を映画化する際に、勿論、スペース・オペラとしての魅力を存分に映像化しようとしたことは想像に難くないが、そこにポールとチャニの運命に切り裂かれる悲恋を重要なモチーフとしたことがこの作品の性格を決定していると理解した。原作では、ポールの政略結婚によってチャニは妾の座に甘んずるのだが、この改変は原作との差異の最も重要なものである。

 

この作品のよさはほかに挙げるなら、まずヴィジュアルの素晴らしさを挙げなければならないだろう。前作では約半分強の映像がIMAXカメラで撮影されたが、本作ではほぼ全編IMAXカメラでの撮影(投影の画角が変わって画像のアスペクト比が切り替わるので、一度気付くとそれからはIMAX映像を観ていると結構気付くようになる)。「日が低い時のアラキスは美しい」というチャニの言葉通り、メランジがきらめく砂漠はあまりにも美しい。その砂漠が、サンドワームに乗るシーンでは荒々しく、またポールとチャニが砂歩きをするシーンでは静かに更にロマンティックに映し出される。フェイド=ラウサの闘技場でのシーンがモノクロで撮影されている大胆な演出も見事なものだった(炭を刷いたような花火は、『メッセージ』のエイリアンの文字を思い起こさせるヴィルヌーヴ監督のファン・サービス)。

 

原作のよさは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と異なる宗教に共通するメシア思想を、ベネ・ゲセリットの「クウィサッツ・ハデラック」、フレメンの「リサーン・アル=ガイブ」としてSFのストーリーに落とし込んだこと。但し、決闘の勝者が指導者となる原始社会のような構造は、おとぎ話過ぎないかと感じた(皇帝シャッダム四世が、レト・アトレイデスのことを「心で人を指導しようとした『弱い者』」と言ったのはその裏返しとしての配慮か)。

 

難を言うならヴィランが少々スケール不足。クリストファー・ウォーケン演じる皇帝に宇宙を牛耳る迫力はなかったし、重力中和装置で宙に浮き、オイルの薬湯につかるハルコンネン男爵は『デューン』におけるH.R.ギーガー的なおどろおどろしさの化身だったはずが、重力中和装置を外されるとただのトドだった。ヴィルヌーヴ監督曰く「サイコキラーとオリンピックの剣闘選手、ヘビとミック・ジャガーを合わせて割ったような人物」のフェイド=ラウサは確かにキャラ立ちしていたが、アラキス統治ならまだしも「皇帝?」という展開も不思議だった。その兄のラッバーンがへなちょこなところは笑うところでよしとして(彼がアラキスに攻め入るシーンは不要)。

 

ポールの血筋にまつわる運命の皮肉を鑑みると、原作が『スター・ウォーズ』に影響を与えたことがよく分かる。またホドロフスキー監督『DUNE』の制作陣が『エイリアン』(1979)という不朽の名作を生みだしたことへのリスペクトが、この作品の造形のそこここに見て取れる。ヴィルヌーヴ監督の『DUNE』の系譜への畏敬が表れた作品と言える。成長した妹アリアが海岸に佇むシーンが挿入されているが(演じているのはエンドロールにクレジットされていないアニャ=テイラー・ジョイ)、ヴィルヌーブ監督はPART3の制作を熱望していると聞く。期待したい。

 

これから観る人、二度目に観る人は是非、ゼンデイヤ演じるチャニの視点で観てほしい。作品への没入度が増すはずだから。

 

★★★★★★★★ (8/10)

 

『デューン 砂の惑星 PART2』予告編