『花腐し』 (2023) 荒井晴彦監督 | FLICKS FREAK

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いやぁ、映画って本当にいいもんですね~

 

荒井晴彦監督が自身で「ピンク映画のレクイエム」と呼ぶ作品。その意味を深く考えることなく観ていた。しかし、観終わってからその意味がよく理解できた。

 

荒井晴彦は数々の名作を生み出してきた脚本家。彼の数多い脚本の中で好きな作品を問われれば、『赫い髪の女』(1979年、神代辰巳監督)と『遠雷』(1981年、根岸吉太郎監督)を挙げるだろう。その彼が自身の「本」を監督するのはこれで4作目。『身も心も』(1997)、『この国の空』(2015)、『火口のふたり』(2019)に続くもの。前作『火口の二人』は、神代監督が生きていたら「こういう映画を撮りたかった」と言ったのではと思わせる、ナチュラルな性愛をモチーフに恋愛をストレートに描いて、恋愛や結婚のありかたについて考えさせられる素晴らしい作品だった。

 

脚本家が自身の「本」を監督するからには、その「本」を人に渡したくない、自分の作品として完結したいという意気込みがあることに想像は難くない。しかし、この作品を観ていて「うーん?」と思ってしまった。

 

作品のストーリーは、ピンク映画業界に携わった男二人、綾野剛演じるピンク映画監督栩谷と柄本佑演じるピンク映画シナリオライター伊関が偶然に出会い、彼らが過去に出会い別れることになった一人の女性について語り合い、それが偶然にも同じ女性だったというもの。二人が共に愛した女性桐岡祥子(さとうほなみ、ゲスの極み乙女での活動名義は「ほな・いこか」)は、栩谷の同僚ピンク映画監督と心中をしていた。

 

映画は栩谷と井関が、井関のアパートと新宿ゴールデン街の韓国バーと場所を変えて酒を酌み交わし、時にへべれけになりながら、ぐだぐだと一人の女性(それが同じ祥子であることは最後の最後になってはじめて気付く)のことを語り、その回想シーンがその都度挿入される構成。現代パートがモノクロで、過去パートがカラーとなっている若干分かりやすい構成はくすぐったいが、過去のイメージの方がよりリアルに感じられる効果があり、悪くはないと感じた。

 

「本」が決定的に弱いと思ったのは、祥子が心中する動機があまりに弱く、彼女の女優として成功する夢を持ち続けるタフな生き様と全く相容れないと感じたこと。また二人の男が、延々と過去につき合った共通の知り合いでもない(とその時は思っていた)一人の女性のことを語り明かすというのも、自分が男だけにあり得ない設定だと思った。

 

そして、執拗なまでに繰り返されるセックスシーンが余計なもののように感じた。それでも栩谷と祥子、井関と祥子の性愛のシーンはぎりぎり受け入れることができた。井関がレイプ作品のシナリオを書くシーンで、「レイプされながら段々女性が気持ちよく感じ始めるなんてのは男の妄想」とピンク映画のセックスシーンはリアリティとは関係ないとするセリフがある。栩谷と井関がゴールデン街から井関のアパートに戻ってからの、レズビアンシーン+その女性二人と井関、栩谷とのセックスシーンは井関が言ったセリフそのものであり、「うーん?」と自分が思ったところ。

 

ところがエンディングへの一連の展開は、その「うーん?」をひっくり返す秀逸なものだった。

 

(以下、ネタバレを含む自分の解釈)

 

一夜の後栩谷が目を覚ますと、井関の部屋には誰もおらず、デスクの上のパソコンには彼と井関が過ごした一夜のやり取りが一字一句そのままシナリオとして書かれていたことを発見する。

 

自分がこのシーンを観て思い出したのは、雨の壁のシーン。その時は「ふうん、不思議な自然現象ってあるんだな」としか思っていなかったが、その雨の壁を越えてからの時間は栩谷の幻想なのではないだろうか。そうすれば、二人の男が共通の知り合いでもない一人の女性のことを語り明かすという不自然な設定も不自然ではない。所詮、栩谷の頭の中の物語なのだから。

 

またレズビアンシーンからのセックスシーンも栩谷の幻想であれば、まさに男の妄想なのだからそれでいい。荒井監督は男の妄想に基づく「正統派ピンク映画」を作ったということだろう。

 

そしてエンディングに栩谷が見る祥子の幽霊も幻想の延長。

 

この作品を観て思い出したのは、アメコミ映画化作品のベストであるトッド・フィリップス監督『ジョーカー』(2019)。作品ではアーサーの妄想であるシーンが幾度となく出てくる。そして自殺のモチーフであるシーンもあるが、その一つが冷蔵庫に入るシーン。そのシーンの展開は回収されていない。自分はその冷蔵庫に入った後の全てのシーンは、アーサーの妄想であると解釈した。虚実入り混じった映像(なぜ民衆に救い出されたアーサーがエンディングで精神病棟に監禁されているのか)が、登場人物の幻想であることで腑に落ちる作品として共通していると感じた。

 

それにしても、綾野剛と柄本佑という二人がバーのカウンターに座って語り合う姿を正面から捉えた絵面はまさに「絵になっていた」。エンド・ロールの綾野剛のカラオケはサービス・ショット。

 

インターネットの普及により、より扇情的なコンテンツを人々が好むようになり、色々な制約があるピンク映画は衰退せざるを得ないオワコンであることは間違いない。この作品を荒井監督が「ピンク映画のレクイエム」と呼んだことは、言い得て妙だと感じた。

 

 

★★★★★★ (6/10)

 

『花腐し』予告編