現在、奈良国立博物館で開催中の特別展「解脱上人貞慶」に関する解説によると貞慶上人は治承四年(1180)、平重衡による平家焼き討ちの時には興福寺の修学僧であったと考えられます。
そこで私が一番ひっかかったのが「平家物語」の「奈良炎上」の記事でした。
市古貞次氏の校注・現代語訳の日本古典文学全集の「平家物語」の該当記事に目を通しましたが、それには12月28日の夜、平家の軍勢により民家に火をかけられ風が多くの寺に火を吹きかけた記述の後、次のような記述がされています。
恥を考え、名誉を惜しむくらいの者は、奈良坂で討死にし、または般若寺で討たれてしまっていた。
歩ける者は、吉野・十津川の方へ逃げて行く。歩く事もできぬ老僧や、すぐれた修学僧・稚児たち、女・子供は大仏殿の二階の上や、山階寺の中へ我先に逃げて行った。
大仏殿の二階の上には、千余人が登って、敵があとからやって来るのを上げまいとして、梯子をはずしてしまっていた。そこへまっこうから猛火は押し寄せた。
わめき叫ぶ声は、焦熱・大焦熱・無間阿鼻地獄の炎の下の罪人の声もこれ以上ではあるまいと思われた。
(中略)
法相宗・三論宗の法文・経典は全く一巻も残らない。わが国ではもちろん、天竺震旦でも、これほどの法滅があろうとは思われない。
(中略)
炎の中で焼け死んだ人人の数を記録したところ、大仏殿の二階の上には千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、またある御堂には三百余人というふうで、詳しく記録してみたら合計三千五百余人であった。
戦場で討たれた大衆は千余人、首を斬って少々は般若寺の門の前にさらし、少々は持たせて、大将軍重衡は上京なさる。
もし、この「平家物語」の記述が平家の焼き討ちの時の状況を正しく伝えているとすれば修学僧であった貞慶上人は山階寺(興福寺)の中に逃げこみ、そこで焼け死んだ八百余人の一人であったはずです。
しかし、貞慶上人は焼け死にませんでした。
何故なら「平家物語」は、あくまでも物語(フィクション)であり、その時の状況を大げさに脚色して記述しているからだと私は思います。
では実際はどうだったかというと、その時の状況を伝える史料としては私は「山槐記」しかないと思いますが、それによると奈良坂の合戦で、(興福寺を初めとする僧兵は)久しく持ちこたえたが遂に敗北し、(その後)興福寺に籠もって合戦となったが、守る事が出来ずに衆徒(僧兵)は皆退散し、平家軍の官兵は所々の家に放火して、その間に東大寺と興福寺は灰燼となったというように記述されています。
この史料も伝聞によるものがあり全てが正確であるとは言えないと思いますが「平家物語」よりは真実を伝えていると思います。
私が想像する平家焼き討ちの時の真実は奈良坂の防衛線が破られ、興福寺の僧兵が興福寺境内に退却した時、戦の戦力にならない僧侶や興福寺で働いていた人々は興福寺を出て他に移動させられたと考えています。
そして興福寺境内で平家軍の官兵と興福寺の僧兵の戦が繰り広げられたと思いますが平家軍の圧倒的な勝利に終わって僧兵が殆んどが討ち死にし或いは逃げ去った後、平家軍の官兵が民家に放火した火が興福寺境内にも迫ってきたので官兵も興福寺から退却したというのが真相ではないかと考えています。
この時、火に包まれ始めた興福寺境内は無人に近い状態になったわけですが、興福寺西金堂衆の僧兵で平家軍の官兵から身を隠していた厳宗と蔵西の二人だけが境内に残っていて二人で力を合わせて命懸けで西金堂から十一面観音像だけを救い出し幸いにも厳宗の住まい(小房)は焼け残ったので、そこに避難したという事ではなかったかと思います。
治承四年の平家の焼き討ちの時、興福寺の安置仏のほとんどが失われたのは、興福寺境内が火に包まれた時に、それらを救出する事が出来る人が境内に残っていなかったからだと私は思っています。
救い出す人がいないのに西金堂の十人弟子像と八部衆像だけが無傷で救い出される事は不可能だと思います。
そのような検証がされずに、現存の十人弟子像と八部衆像が治承四年の平家焼き討ちの時に奇跡的に救出されたと主張する説が主流になっている事は残念だと思います。
そこで私が一番ひっかかったのが「平家物語」の「奈良炎上」の記事でした。
市古貞次氏の校注・現代語訳の日本古典文学全集の「平家物語」の該当記事に目を通しましたが、それには12月28日の夜、平家の軍勢により民家に火をかけられ風が多くの寺に火を吹きかけた記述の後、次のような記述がされています。
恥を考え、名誉を惜しむくらいの者は、奈良坂で討死にし、または般若寺で討たれてしまっていた。
歩ける者は、吉野・十津川の方へ逃げて行く。歩く事もできぬ老僧や、すぐれた修学僧・稚児たち、女・子供は大仏殿の二階の上や、山階寺の中へ我先に逃げて行った。
大仏殿の二階の上には、千余人が登って、敵があとからやって来るのを上げまいとして、梯子をはずしてしまっていた。そこへまっこうから猛火は押し寄せた。
わめき叫ぶ声は、焦熱・大焦熱・無間阿鼻地獄の炎の下の罪人の声もこれ以上ではあるまいと思われた。
(中略)
法相宗・三論宗の法文・経典は全く一巻も残らない。わが国ではもちろん、天竺震旦でも、これほどの法滅があろうとは思われない。
(中略)
炎の中で焼け死んだ人人の数を記録したところ、大仏殿の二階の上には千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、またある御堂には三百余人というふうで、詳しく記録してみたら合計三千五百余人であった。
戦場で討たれた大衆は千余人、首を斬って少々は般若寺の門の前にさらし、少々は持たせて、大将軍重衡は上京なさる。
もし、この「平家物語」の記述が平家の焼き討ちの時の状況を正しく伝えているとすれば修学僧であった貞慶上人は山階寺(興福寺)の中に逃げこみ、そこで焼け死んだ八百余人の一人であったはずです。
しかし、貞慶上人は焼け死にませんでした。
何故なら「平家物語」は、あくまでも物語(フィクション)であり、その時の状況を大げさに脚色して記述しているからだと私は思います。
では実際はどうだったかというと、その時の状況を伝える史料としては私は「山槐記」しかないと思いますが、それによると奈良坂の合戦で、(興福寺を初めとする僧兵は)久しく持ちこたえたが遂に敗北し、(その後)興福寺に籠もって合戦となったが、守る事が出来ずに衆徒(僧兵)は皆退散し、平家軍の官兵は所々の家に放火して、その間に東大寺と興福寺は灰燼となったというように記述されています。
この史料も伝聞によるものがあり全てが正確であるとは言えないと思いますが「平家物語」よりは真実を伝えていると思います。
私が想像する平家焼き討ちの時の真実は奈良坂の防衛線が破られ、興福寺の僧兵が興福寺境内に退却した時、戦の戦力にならない僧侶や興福寺で働いていた人々は興福寺を出て他に移動させられたと考えています。
そして興福寺境内で平家軍の官兵と興福寺の僧兵の戦が繰り広げられたと思いますが平家軍の圧倒的な勝利に終わって僧兵が殆んどが討ち死にし或いは逃げ去った後、平家軍の官兵が民家に放火した火が興福寺境内にも迫ってきたので官兵も興福寺から退却したというのが真相ではないかと考えています。
この時、火に包まれ始めた興福寺境内は無人に近い状態になったわけですが、興福寺西金堂衆の僧兵で平家軍の官兵から身を隠していた厳宗と蔵西の二人だけが境内に残っていて二人で力を合わせて命懸けで西金堂から十一面観音像だけを救い出し幸いにも厳宗の住まい(小房)は焼け残ったので、そこに避難したという事ではなかったかと思います。
治承四年の平家の焼き討ちの時、興福寺の安置仏のほとんどが失われたのは、興福寺境内が火に包まれた時に、それらを救出する事が出来る人が境内に残っていなかったからだと私は思っています。
救い出す人がいないのに西金堂の十人弟子像と八部衆像だけが無傷で救い出される事は不可能だと思います。
そのような検証がされずに、現存の十人弟子像と八部衆像が治承四年の平家焼き討ちの時に奇跡的に救出されたと主張する説が主流になっている事は残念だと思います。