僕の架空音楽バー
『Bar Adieu Romantique』へ、ようこそ。
『Bar Adieu Romantique』ではお越しいただいた方に毎回、ご挨拶代わりに僕の独り言【Monologue】を書いたFree Paperをお渡ししている。
Romantique Monologue No.004
『記憶に残る雑誌』
前回の「独り言」では『雑誌の海を泳いで渡ってきた』という少々、大袈裟なタイトルを付けて、雑誌との関わりや雑誌についての僕なりの想いを書いた。まぁ、「独り言」の続編というのもおかしな話だけど、「総論」から「各論」へ、というようなことで。一見「無駄」なもののようでいて僕の人生にとってはとても「大切」なことを教えてくれた雑誌の中で、特に僕にとって『記憶に残る雑誌』について(廃刊や休刊している雑誌や現在も続いている雑誌をごちゃ混ぜにして)、具体的な「独り言」を囁いておこうと思う。
たくさんの固有名詞が出てくるはずなので、読んでいただき易くするために、一応、番号を振って書いてみることにした。
①1968年に澁澤龍彦の責任編集により創刊されたエロティシズムと残酷の総合研究誌『血と薔薇』。4号まで刊行されたけど澁澤龍彦が関わったのは3号まで。もちろん。僕が持っているのはオリジナルではなく、2003年に出た1~3号までの完全復刻版。因みに。この本のコンセプトは「本誌は、文学にまれ美術にまれ科学にまれ、人間活動としてのエロティシズムの領域に関する一切の事象を偏見なしに正面から取り上げることを目的とした雑誌である。したがって、ここではモラルの見地を一切顧慮せず、アモラルの立場をつらぬくことをもって、この雑誌の基本的な性格とする」というものだった。何だか凄いよね。写真は僕の独り言と連動させた2号「コンプレックス」特集。
②1978年に創設されたペヨトル工房という出版社から刊行されていた一連の雑誌『夜想』(現在も誌名を『YASO』に変えて刊行中)、『WAVE』、『銀星倶楽部』、『Ur』。例えば『夜想』なら「シュルレアリスム」や「ハンス・ベルメール」、「アンリ・ピエール・ド・マンディアルグ×ボナ」などの特集。『WAVE』なら「ボリス・ヴィアン」、「グレン・グールド」、「ニーノ・ロータ」、「エリック・ロメール」などの特集が。『銀星倶楽部』なら「フィリップKディック」、「バロウズplusビートニク」、「ノイズ」、「テクノ・ポップ」などの特集があり、『Ur』なら「ノンジャンル・ミュージック」、「アンビエント・ミュージック」、「フレンチ・ポップス」などのコアな特集が組まれ、特に1980年代のサブカルチャーに圧倒的な影響力を持っていた。
③1976年にアンディ・ウォーホルが携わった『Interview』と提携し、タブロイド版の新聞形式で主にインタビュー記事を中心にして創刊された『STUDIO VOICE』。もともと、森英恵の長男、森顕が編集長を務め、ブティック&カットサロン『STUDIO V』(1960年代から日本人としてアメリカでも活躍していたヘア・デザイナー、須賀勇介がディレクターを務めたお店)のスタッフと『流行通信』の川村容子が編集に携わった。
1979年からは中綴じになり雑誌として毎月、その時々の話題の人にスポットを当てたロング・インタビューが掲載された。その後、1990年4月号から無線綴じにリニューアルして「ワン・テーマ」のアーカイブ編集に。
僕が最も影響を受けた雑誌のひとつであり、今でも100冊以上手元に残っている。普通の雑誌では取り上げない特集ばかりだったけど、中でも僕が一番、好きなのは1994年9月号「Here Come The Girls ! ~キューティたちの60年代」。こういう特集って、ありそうで実はどこにもなかったんだ。巻頭に寄せられたピチカート・ファイヴの小西康陽のスタイリッシュな序文から始まる実に魅力的な特集だった。
④平凡社から刊行されていた『太陽』。この雑誌は季刊だったのかな? 美しいグラビア写真で編集された、豪華なビジュアル雑誌。あまりたくさん持っていないけど、宝物的に手元にあるのは1991年4月号「澁澤龍彦の世界」、1991年9月号「アングラ世界の万華鏡 寺山修司」、1991年12月号「稲垣足穂の世界」、1993年4月号「瀧口修造のミクロコスモス」、1990年11月号「奇想天外な巨人 南方熊楠」。この5冊は手放せない。
⑤『アール・ヴィヴァン』【ART VIVANT】(西武美術館)は雑誌というよりはもはや美術書。「レメディオス・バロ」、「フルクサス」、「バルテュス」などの特集が組まれていたけれど、特にこの「骰子の七番目の目」は、シュルレアリスト、ジョルジュ・ユニエのコラージュ集とも言える逸品であり、雑誌という形でこんなものを出版したことが素晴らし過ぎ。因みに表紙のデザインは田中一光。当時の西武グループはほんとに勢いがあったと思う。
⑧1991年に細野晴臣の責任編集で季刊誌として筑摩書房から刊行された音楽雑誌『H2』のプレ創刊号(0号)。さまざまな有名人に音楽について行ったアンケートや、当時、細野さんが志向し、実際に氏が聴いていた「クワイエット」という切り口の音楽が細野さんのコメントと共に数多く紹介されていた。当然、僕は次の号を期待したけれどその後、いくら待っても正規の創刊号が出なかった。ただ単に細野さんが「やる気を失くしただけ」なのかも知れないけど。もしかすると、まだバブル期でもあり(出版界も余裕があったから)、細野さんと筑摩書房の間でもともと1回きりの刊行で終わらせることを前提とした、謂わば「遊び」的な雑誌だったのかも知れない。
⑨『エスクァイア日本版』は、もともと歴史あるアメリカのスクエアな雑誌の日本版として1987年に創刊され、編集もライティングにしても、その硬質なスタイルを受け継いでいた。僕の記憶に残る特集は、アメリカ南部にスポットを当て、ニュー・カラーの写真家ウィリアム・エグルストンの作品を始め、音楽、文学、映画などを集めて、その地の空気感が伝わってくるように編集された2004年11月号『Slip inside the Deep South』特集。他にも「ラテン・ミュージック」とか「ヌーヴェルヴァーグ」などの、とても面白い特集があった。
⑩本誌とは別に刊行されていたエスクァイアの別冊。これは年の1960年代のカルチャーをたくさんのカラー写真で紹介してくれた特集『1960s Revolution』。サイケデリック・カルチャーを代表するケン・キージーの記事やウォーホルのファクトリーのスーパースターであったベイビー・ジェイン・ホルツァーのインタビューなど、ワクワクするものばかりだった。
⑫1993年に創刊された音楽雑誌『米国音楽』は内容に関わらずっと買っていた。誌名の「米」部分をユニオンジャックにしたロゴがアメリカ、イギリス両方の音楽を扱っていることをセンス良く打ち出していたけど、結局、コーネリアスや嶺川貴子、カジヒデキ、かせきさいだあなどの、「渋谷系」の人たちの扱いが多かった。オマケとして毎回、オリジナルCDが付いていたことも嬉しかったな。
⑬『団塊パンチ』は、その名の通り1960~70年代にカルチャー雑誌として愛された『平凡パンチ』とその時代にオマージュを込め、新たに「平成」の視点からその時代を再構築して2006年に創刊された雑誌だった。編集長はその時代を体現できなかった世代であり、90年代に音楽雑誌『Quick Japan』で名を上げた赤田祐一。60年代から加賀まりこや安井かずみら有名人が集ったサロン的イタリアン・レストラン「キャンティ」や石津謙介が創業したIVYファッションのブランド「VAN」の特集が組まれていた。因みに写真はアグネス・ラムが表紙になった第4号。平成時代の本屋さんでこの表紙を見つけた時、ノスタルジーと新鮮な感覚が同時に襲ってきた。
他にもいろんな雑誌を読んできた。もう手元に残っていないものもあるけど、時代順じゃなく思いつくままランダムに誌名だけでもざぁーと並べていくね。
音楽の雑誌なら中学の時から買っていた『ミュージック・ライフ』はもちろん、1969年に中村とうよう、田川律らによって創刊された『ニューミュージック・マガジン』と、誌名を変更してからの『ミュージック・マガジン』。渋谷陽一が主宰した『ロッキング・オン』、かなりの冊数が手元に残っている『レコード・コレクターズ』、1978年にインディ・レーベル「ヴァニティ・レコード」を主宰した阿木譲が編集した『Rock Magazine』、1980年創刊、森脇美貴夫が編集長だったパンク雑誌『Doll』、プログレッシヴ・ロックの専門雑誌『Fool's Mate』と『Marquee Moon』、岩本晃市郎が編集長を務め1998年に創刊された『ストレンジ・デイズ』。ワールド・ミュージックの雑誌『包(パオ)』、『ラティーナ』。『Crossb
eat』、『REMIX』、『WHAT'S IN?』、『Cookie Scene』、『Snoozer』、野田務が編集長を務める『ele-king』。豊富な写真と情報量でビートルズをアーカイヴした(これは雑誌なのかなぁ)『Beatleworld Nowher』や、エアチェックをするために便利だった『FMレコパル』など。
映画の雑誌では『スクリーン』と『ロードショー』から始まって『キネマ旬報』(高校の頃にはこのキネ旬から別に出ていた映画事典のようなものも買っていた)。1951年のパリで。アンドレ・バザンによって刊行され、後にフランス映画の大きな潮流となる「ヌーヴェルヴァーグ」【Nouvelle Vague】を生み出すことになる作家主義的・批評的映画雑誌『Les Cahiers du cinéma』の日本版『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』、掲載される写真がとても素敵だった『FLIX』、1995年、町山智浩が中心になり創刊された『映画秘宝』も。
高校の頃からオシャレにも興味があったので、ファッション雑誌もよく買っていた。『MEN'S CLUB』、『Check Mate』から始まり、女性ファッション誌『anan』や『流行通信』(横尾忠則がアート・ディレクションを務めた伝説的な時期もあった)、フランスのファッション雑誌『marie claire』の日本版『マリ・クレール』、1999年の創刊号から買った『VOGUE JAPAN』も。
その他、創刊号から読んでいた『POPEYE』や『OLIVE』、『Fine』。大学時代にはサーフィンをしていたこともあり、そのライフスタイルにも惹かれたのでずっと買っていたサーフィンの雑誌、関西限定の『Take Off』(音楽紹介のコーナーは1970年代からある大阪ミナミの輸入レコード店「Melody House」(現在は「Melody」)のオーナー兼店長の森本さんが担当していた)や『サーフィンワールド』。あと、グラビア写真誌『GORO』と篠山紀信が撮影を担当していた『写楽』とか。
その他、矢崎泰久が編集長を務め、和田誠がADを担当し、1965年に創刊された『話の特集』、天野祐吉が編集長を務めていた頃の『広告批評』、榎本了壱と萩原朔美によって1975年に創刊された後、高橋章子が編集長だった頃の『ビックリハウス』、毎号、ピカソのドローイングが表紙に使われていた詩の雑誌『鳩よ!』。関川誠が編集長だった1980年から80年代中頃くらいまでの『宝島』(もともとは植草甚一が監修し、津野海太郎が編集長を務め、片岡義男や高平哲郎らの編集により晶文社から刊行された伝説の雑誌『Wonder Land』の後継誌)。
80年代中頃に刊行されていた『LOO』、webがなかった時代の生きた情報が詰め込まれた『ぴあ関西版』、関西限定のタウン誌『meets』。 「ラヴァーズ・ロック」特集が素敵だった『relax』。『Pen』、『Title』、「はじまりのアメリカ~ロバート・フランク」や「柴田元幸~文学を軽やかに遊ぶ」の特集が面白かった『Coyote』、『BRUTUS』と『Casa BRUTUS』、村上春樹の小説『騎士団長殺し』に登場する免色さんの家の本棚に並んでいた『National Geographic Magazine』。1995年に日本語版が刊行されたけど、僕は80年代に時々、英語版を買っていた。僕が大好きな「シロクマ」や「グリズリーベア」の写真が多く掲載されたものをね。
そしてさらに。例えば「アンドレ・ブルトン~シュルレアリスムの法王」とか「アントナン・アルトー~あるいは〈器官なき身体〉」、「コクトー~永遠の詩人」、「矢川澄子~不滅の少女」などの特集があった『ユリイカ』、「ラヴ・クラフト症候群」や「ボルヘス&ラテン・アメリカ幻想」などの特集が組まれた『幻想文学』(1988~89年に別冊の2冊シリーズで『澁澤龍彦~クロニクルとドラコニア・ガイドブック』が出た)、松岡正剛が編集を務めていた『遊』、浅田彰、伊藤俊治、四方田犬彦らが責任編集した『GS~楽しい知識』、蓮實重彦が編集長だった『リュミエール』などの雑誌が、若い頃から現在に至る僕の知的好奇心を擽ってくれた。
こうして書き並べていると、前回の「雑誌の海を泳いで渡ってきた」という大袈裟なタイトルもそれなりに収まりがついてきたかな。
しかしまぁ、長い独り言だったよな。しかも前回から、独り言が単に「言」じゃなくなり、ビジュアルがひっついてくるようになってるし。「独り言&独り画」(そんな言葉、ないよ)といったところか。まぁ、読んでもらい易くはなったかなと、またまた自画自賛ながら、そう思っている。
「Bar Adieu Romantique」店主より
そろそろ『Bar Adieu Romantique』のオープンの時間だ。
小野誠彦【Seigen Ono】が「Comme des Garcons」の1988年の秋冬コレクションのために制作した曲をコンパイルしたアルバムから、ラウンジ・リザーズのメンバーでもあったエヴァン・ルーリー【Evan Lurie】のアコーディオンの音色が沁みるロマンティークな曲『Julia』でスタートしよう。
自らが主演し、監督及び脚本も担当した1998年の映画『バッファーロー’66』のヴィンセント・ギャロ【Vincent Gallo】が制作・リリースしたアルバム『When』から『I Wrote This Song For The Girl Paris Hilton』を。視覚的な音楽からイメージの風景が立ち上がる。
フェイク・ジャズを標榜し、1978年にジョンとエヴァンのルーリー兄弟を中心にアート・リンゼイ、スティーヴ・ピッコロ、アントン・フィアーによって結成されたラウンジ・リザーズ【The Lounge Lizards】の、1981年にリリースされた鮮烈なデビュー・アルバムのオープニング曲『Incident On South Street』を。
ビル・ドラモンドとジミー・コーティによって結成され、まるで「DADA-ist」のように(一見)無秩序に活動したthe KLFが1990年にリリースした静かな問題作『Chill Out』から『Madrugada Eterna.』と『Elvis On The Radio,Steel Guitar In My Soul』。電子音の緩やかな流れの中で羊の鳴き声や虫の声、汽車の音、ラジオから流れてくるエルヴィス・プレスリーの歌声が顕れては消えてゆく…。心象風景のような、夢のような、幻のような。ハウス・ミュージック・ブームの真っただ中にあって、アンビエント・ハウスという潮流と、アルバム・タイトルでもある「チルアウト」という新しい音楽体験を生み出した。
「Chill Out」したところで、本日は閉店。
それじゃぁ、また。
アデュー・ロマンティーク