一即多 多即一 物理学の心 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

ネットの教えてgoo!  での遣り取りで、次のようなコメントを頂きました。

>素晴らしき世界が完全なのか、未完なのか。完全ではない、完全ではないと言われる故に完全なのである、と言えば、どこか金剛般若経のようではありますが、完全なる世界像と創造的世界像との相克も、そのような表現によって決着するのかも知れませんね。

これに絡めて、仏典やヒンドゥー教の中の論理的に一見矛盾しているように見える考え方には物理学と親和性が強い見方をしばしば見受けますのでそれを紹介します。

例えば、華厳経の「一即多 多即一」を論理的に無矛盾な言述にして見せたのが、ニュートンの法則です。ニュートンの問いは、この世の中の森羅万象、すなわち「多」をたった一つの原理、すなわち、「一」から説明することが可能かと言う問いでした。これは一見論理学的に矛盾しているように見える。ですから、ニュートン以前には各々違った事象には各々違った原理が隠れている程度に考えていた。すなわち「多即多 」です。

それに対して、ニュートンは

数学は自然を記述するための言語である

と言うガリレオの気違い染みた神懸かりの言葉を信じて、「一即多」を論理的に無矛盾であることを示そうとした。その結果、彼は、運動の記述が微分方程式で表されることを突き止めた。そうです! 微分という数学的概念はニュートンによって発見されたのです。そして、微分方程式の最も重要な特徴は、たった一つの微分方程式が与えられていても、その解は一つには定まらない。それを定めるためには、微分方程式とは独立に、初期条件というものを与えなくてはならない。そして、その初期条件の可能性は無限にあり、各々の初期条件に対して一つ一つ違った解が定まることを明らかにした。その発見によって、この世界は1)微分方程式と2)初期条件という二つの独立なものの組み合わせで無矛盾に記述が可能になることが明らかになりました。そして、1)の形はこの宇宙の性質に直接関係しており、したがってこの宇宙の性質を表している。一方、2)は1)に無関係にそれを解く者が任意に与えることができるという意味で、系の本質的な性質というよりも、その系に偶然に付与された性質であると考えて良い。さらに、その逆も真で、1)には2)の情報が含まれてはおらず、だからその系に外部から与えられた偶然には無関係にそれ自身で立っている(脚注参照)。そこで、ニュートンは1)に対して、「Law」すなわち「法則」という名前を付けた。これがニュートンの法則です。

その結果、この宇宙にはたった一つの「法則」があり、それが森羅万象を支配しているが、その多様性の根拠は1)すなわち法則の多様性にあるのではなくて、2)すなわち初期条件の多様性にあることを明らかにしたのです。このことから、華厳経の「一即多 多即一」が論理的に無矛盾な言述であることが明らかになったのです。

他にも物理学の進歩で仏典に関わるものに、量子力学の波動関数があります。波動関数とは、ある物理系が与えられた時に、その物理系でどのような事象が起こり得るのかの確率を与える関数です。そして、波動関数は、例えば、一つの電子があるとすると、その粒子の運動のあり方の可能性、例えば、その粒子が空間の中のある位置にありうる確率を与えます。そして、波動関数は一般に波動の性質を持っているというのが量子力学からの帰結です。ところで、波動とは空間の一点だけでは定義できません。少なくとも空間の2点以上の間の関係を表しているのが波動です。このことは数学の言葉では、波動関数の非局所性と言います。一方、粒子は空間の違った点に同時に存在できるものではありません。このことを数学の言葉では、粒子の局所性と言います。そして、量子力学が成し遂げた驚くべき論理的な帰結は、この局所性と非局所性が数学的に無矛盾に表現可能であるという事実を明らかにしたことです。

量子力学が発見される以前は、「Aであり同時にA でない」という言述は論理的に破綻した言述であるとされてきました。ところが、量子力学は波動関数が意味するものは、事象そのものではなくてその事象が起こる確率を表しているということを明らかにすることによって、局在と非局在が同時に両立しうることを明らかにしたのです。この結果は、仏典に繰り返し出てくる一見矛盾した言述が必ずしも論理的に矛盾したものではないとをも明らかにしたのです。

また、ヒンドゥーの経典の中には量子力学の本質を見事に描いて見せた描写があります。それは、ヴィシュヌ神が竜王アナンタの上で寝ている場面です。その場面では、ヴィシュヌの妻のラクシュミーが彼の足を心地よい高さに保っています。さらに、ヴィシュヌの臍から蓮の花が生えていて、その上にブラフマー神が鎮座ましましておられる。この場面全体で、この宇宙の成り立ちを表現しているのです。この場面と量子力学の関係はブログ『この世界ってどう出来ているの?1 インド編』 2013-01-26 で説明してありますので、そちらを参考にしてください。

近代科学や西洋的視点を習い始めた初学者はその緻密さに目が眩み、それに属さない文化圏の人々が成し遂げてきた深い世界観を非論理的なものと誤解してしまう傾向にあります。しかし、先人たちの営みの凄さは、実証的な検証なしに、また、未開で未熟な論理の段階で、結構、的を射た世界観を作り上げて来たことです。物理学の内部を取っても、先人たちは数学的にも論理的にも飛躍が多すぎて神懸かりとしか言えないような、いわゆる物理的洞察なるものを駆使して、証明も論理的な裏付けもなしに、後になってそれが正しかったと確認できる主張を次々に出してきたのが、物理学の発展の歴史でした。私に取っては、物理学の営みの最も魅力的な部分は、論理的な整合性を論じる部分ではなくて、この神懸かりの部分だと考えています。

(脚注)物理の専門家のために:
ニュートンの運動方程式やマクスウェル方程式やシュレーディンガー方程式など物理学の基本方程式は保存系の方程式であり、時間の向きの対称性が破れていない決定論的な微分方程式です。一方、ボルツマン方程式やフォッカー=プランク方程式やパウリのマスター方程式など運動論的方程式は散逸系の方程式であり、時間の向きの対称性が破れた非決定論的な微分方程式です。これら運動論的方程式を上記の物理学の基本方程式から導き出す過程で、エネルギーに関する複素平面への解析接続の方向が、初期条件の選び方に無矛盾な方向に選ばなくてはならない。従って、これら時間の向きの対称性が破れた運動論的方程式は、微分方程式自身が初期条件の情報を含んでいます。この点が時間の向きの対称性を破る方程式が物理学の基本方程式とは決定的に違っている点です。

[参考文献]

[1] "Poincaré Resonance and the Extension of Classical Dynamics" T. Petrosky and I. Prigogine

Chaos, Solitons and Fractals 7, No. 4 (1996) 441-498.

[2] "The Liouville Space Extension of Quantum Mechanics" T. Petrosky and I. Prigogine

Advances in Chemical Physics, Volume 99, eds. I. Prigogine and S. Rice

(John Wiley and Sons, 1997) 1-120.

[3] "Complex Spectrum Representation of the Liouvillian and Kinetic Theory in Nonequilibrium Physics" T. Petrosky, Prog. Theor. Phys. Vol. 123, (2010) 395-420.
日本語の解説は以下参照:

[4]「リウビル演算子の複素固有値問題と濃密度気体系の非平衡輸送現象」T. Y. Petrosky

物性研究 (Bussi Kenkyu) pp177- 237, Vol.82, No.2, 2007.