Simple is best:思考の経済学 | texas-no-kumagusuのブログ

texas-no-kumagusuのブログ

トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

私は物理学の研究者ですが、シンプルであることは、自分でも何を言っているかわからない研究の今後の方向を与えてくれるに当たって、大変強力な指針を与えてくれます。


論理の恐ろしさは、たとえ間違った方向に向かっていたとしても、それ以前の論理よりも複雑に論理を展開すると、目の前の当面の問題が解決してしまうところにあります。しかし、その問題が解決したように見えても、もともとその方向が間違っている場合には、それ以外のどこかに新しい齟齬が出てくる。そして、その新しい齟齬は、自分の到達した論理をもっと複雑にすると、また解決してしまう。このように前よりも論理を複雑にし続けて行くと、当面の問題が解決できてしまうので、キリなく間違った方向に進んで行ってしまいます。そして、この複雑な論理をこなすことができる自分に恍惚としながら、一生間違った方向に進んでしまって、全く無駄な人生を送ってしまうのです。

ですから、自分の研究成果が一見うまく前進しているように見えても、この罠にはまってしまうと、人生を棒に振ってしまいます。要するに、自分の主張している論理に説得力があったとしても、それが正しいどころか、一生を棒に振る罠であることもあるのです。

さあ、もし説得力があることでその論理が正しいかどうかわからないとしたら、どのようにして正しい論理を見つけることができるのか。ここにシンプルの役割があるのです。それには、時々立ち止まって、自分の論理が以前と比べてシンプルになっているか、それとも複雑になっているかを振り返って見る必要がある。そして、たとえ正しい方向に向かっているように見えても、より複雑になっているなら、その道はないと結論づけることが肝要です。

その反対に、シンプルな方向に発展しているならば、自分の方向が間違っていないとますます確信できるようになるのです。

私は自分の研究生活で”Simple is best.”という言葉を単なる言葉ではなく、このように実戦での生き残りのための指針として実行しています。

ところで、Simple is best という言葉に似た概念で「思考の経済」というものがあります。思考の経済というのは、ある事情を説明するのに、できるだけ少ない概念から説明できる場合、その方が説明が経済的であると判断して、その方が優位な説明法であるとする考え方です。この判断も、未知のもの対する論理の発展の指針を与えてくれます。

しかし、それが必ずしも正しくなかったという例が物理学の歴史の中にはあります。それは個体や液体や気体が連続体でできているのか、あるいは分子などの集まりでできているのかという問題でした。18世紀には化学者たちが化学反応を説明するのに、分子という概念を導入すると実験事実がよく説明できると気がついた。一方で、その頃、液体や気体の力学的性質を論じるのに、物理学者たちは流体力学、あるいは連続体力学という分野を高度に進歩させていた。そして、液体や気体で観測される物理的性質を見事に説明していた。

ところが、19世紀半ばごろになって、化学の知見に基づいて、液体や気体が分子という粒子の集まりであると仮定してその力学を構築できないかという動きが出てきた。その分野で有名なのは、電磁気学を完成させたイギリス人のマクスウェルやエントロピーの力学的説明を試みたオーストリア人のボルツマンです。気体や液体が連続体に見えるのは、分子間の距離が私たちのスケールと比べてあまりに短いから、近似的に連続とみなされているのだろうという仮説に基づいて、粒子間の力学を解いて現象を説明しようという考え方です。これを気体分子運動論と言います。そこで連続体を多大なる粒子できていると仮定してニュートンの方程式を解き、どのような近似で今まで成功を収めている流体方程式が導き出されるのかを論じたのです。ところが、粒子の数があまりに多いためにニュートン方程式を解くことが絶望的に難しい。その結果、流体力学で説明されている現象の中の、ほんの僅かな現象しか説明できなかった。それに比べて流体力学によると圧倒的多数の現象でそれがうまく説明されている。

さて、いくら化学で分子論が成功しているとは言え、そんな僅かな成功例しかない物理学で分子論を受け入れて良いのか。そんなことをやっても無駄ではないのか、という疑問が出てきた。要するに未知のものに対する今後の指針として、数学的に絶望的に複雑な分子運動論の方向に進んで行って良いのかという疑問です。

これに対して、あの音速の単位になっているマッハという物理学者が、19世紀後半になって思考の経済ということを言い出した。確かに、僅かな例で気体分子運動論は成功している。しかし、誰も分子を見たことがないではないか。(事実、分子や原子を直接見ることができるようになったのはつい最近です。)ところが、流体力学ではその論理構成の中に分子や粒子という概念使うことなく、現象がうまく説明できているではないか。もし、一つの現象に二つの違った説明法があって、それがともに論理的に無矛盾であった場合、その結論を導くのに使われた概念の数が少ない方のが思考が経済的ではないかと言い出したのです。

その結果、物理学者の間で喧々諤々の議論が巻き起こりました。そして、そのマッハの言う思考の経済という考え方に多大な影響を受けたのがアインシュタインでした。アインシュタインはマッハの言っていることが正しいのだろうか、それともマクスウェルやボルツマンの言っていることが正しいのだろうか、それを論証する方法はないのだろうかと真剣に考えたのです。そして、アインシュタインがあの有名な相対性理論の論文を出した1905年に「ブラウン運動の理論」と現在言われてる、もう一つ別な論文を書いたのです。

ブラウン運動とは、生物学者のブラウンが煮立たせて死んでいるはずの花粉を水に浮かべて顕微鏡で見てみると、ゆらゆら花粉が動いていることを発見してその名が付きました。アインシュタインはこれは大きな花粉の粒子に目に見えないほどの小さな水の分子がでたらめに衝突しているのでこのようにゆらゆら動いているのではないかという仮説を立ててみた。そしてその仮説に基づいて、ある時間あたりに花粉が移動した距離を測れば、その距離から、単位体積あたり、例えば1ミリ立方センチメートル当たりにある水の分子の数を同定できるのではないかと提案しました。そしてその数年後フランスの物理学者ペリンによってその数が同定され、それが化学者の言っていた数の同じになったのです。これで、疑り深い物理学者もついに化学者の言っている分子なるものが存在することを認めたのです。アインシュタインもペリンもこの業績によってノーベル賞を受賞しています。その結果、絶望的に難しくても分子運動論で現象を分析しなくては物質の性質の本当のところが解らないとこになった。でも、その結果、確率論などの数学の分野が大進歩を遂げました。

ところで話が逸れますが、アインシュタインは相対性理論でノーベル賞をもらったのではありせん。彼はこのブラウン運動の理論と、もう一つ、写真が写るメカニズムの説明として、光が今まで考えられていたように波動ではなくて粒子であるということを明らかにした「光電効果の理論」の二つの業績でノーベル賞をもらったのです。

上記のように、思考の経済の考え方は、たまには間違った方向に進んでいってしまうこともあります。同じようにSimple is best も完全な指針を与えてるとは限りません。しかし、私の知る限り、まだそれが不味かったという事例は見つけていません。