天皇家:世界最長記録保持者 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

君が代は細かなさざれ石が成長して巌となるほど連綿として途絶えない天皇家を讃えています(注)。そしてこの歌のように、天皇家は人類が生み出した全ての王朝の中で最長の記録を毎年更新し続けています。この事実ひとつとって見ても日本は人類史の中で明らかに特異な存在です。今回はこの特異な文化を可能にした根拠について論じて見ます。

その国の国民性が形成されて行く過程は、1)その国を取り囲む外圧事情、2)国内部での様々な歴史的経緯や歴史的偶然、が複雑に絡みながら競合的に共同現象として働いている複雑系の形成の典型的な例です。従って、その形成のもっともらしい説明は全て後付けの説明しかできないでしょう。また、複雑系の形成を定量的に論じる分岐の理論によると、複雑系が内外部の事情で偶然を契機として自発的に創出するためには、イ)不安定期が必要であり、ロ)さらにその不安定期には必ず両極端に相反する安定構造が現れるために、そのどちらの構造が実現するかは全くの偶然が支配する確率過程になっています。それ故、その国民の国民性の形成には前もったシナリオもなければ必然性もないことも念頭に入れて論じる必要があります。

 

それを考慮した上で、上記1)に関して、日本海の荒海によって日本が外界から適度に孤立していたこと、2)に関して、天皇家発祥の初期のころから国の権威者と政治的実権を握った為政者の分離が起こったことが、天皇家の存続を保証したのだと思います。その結果、政治的実権を握った者が次々と入れ替わっても、権威の象徴としての天皇は残った。この権威と権力の分離は大きく分けて3段階を経ているようです。

その第1段階とは、天皇家発祥の初期の頃の中央集権の文民制度において、世襲化された官僚制度、すなわち貴族制度が出現した時代です。そこでは、天皇家の権威を温存しつつ、天皇の外戚の祖父の藤原家が摂政として政治的実権を独占する独創的な摂関制度を採用していました。この制度は二百年ほどに渡って比較的安定した社会をもたらしました。この辺りから、日本人の間で、権威としての天皇と政治的権力の分離が重要なものとして受け入れられるようになってきたのではないかしら。

 

第2段階は、その後にたまたま藤原家の外戚を持たなかった後三條天皇が政治的権力を天皇家に取り戻すために、自分自身の孫が産まれるのを待って、天皇の内戚の祖父として院政を敷いた段階です。ここでも天皇の権威と院の政治的権力を分離した執政を行なっている。なぜ、成人した天皇が直接政治的実権を握らずに、こんなまどろっこしい院政なる制度を導入したのか。それは、現在の法体系の制度とは違って、その当時の行政では前例が絶対的な説得力を持っていたからです。ですから、政治的実権を外戚の祖父が持つという前例がしばらく続くと、それは神聖にして犯すべからざるものとして君臨するようになった。そこで後三條天皇も祖父になる時を待ったのです。因みに、学問の神として崇められている菅原道眞公は革新的な政治家としてではなく保守的な政治家として徹底的に前例を勉強し、革新的な提案をする藤原家の連中から煙たがられたのでした。今でも、官僚にとっての鉄則は前例に従うことになっていますね。これはいつの時代でも変わらない現象でしょう。

 

第3段階は院政華やかな後白河法皇が政治的安定のために源平を戦わせることで知らず知らずのうちに武士の台頭を許し、中央集権の文民制度から武家による幕府制度、すなわち中世の西欧を除いて他に類を見ない封建制度に移行してしまった段階です。封建制度に移行した原因は日本の豪族の実力は団栗の背比べで他の豪族を完全に抹消するだけの強大な実力を持った武家の棟梁が現れなかったという特殊な事情によっています。西洋の歴史学者も日本の封建制度は西欧のものと本質的に同じ制度だと述べています。この先鞭をつけたのは平清盛です。彼の政治家としての天才的な能力は、天皇家の権威を利用しつつ、三方を山に囲まれているために戦略的に脆弱な京都を離れて福原に本拠地を置き、時々京都の六波羅探題に出向く形で政治を執り行う方法を編み出した点にあります。その後、平家を滅ぼした源頼朝は、やはり清盛を真似て京都に本拠地を置かずに、権威の象徴としての天皇を京都に置き、政治権力の中心を鎌倉の幕府に置いて、権威と権力の分離を明確にしました。

 

もちろんこの間に、承久の乱や建武の新政のように、天皇家による政治的権力の奪回の試みが行われました。しかし、それらが失敗したことは、天皇家の存続を保障したという意味で、逆に天皇家にとっても、また日本にとっても幸運だったと思われます。もし天皇家が政治的権力を手に入れてしまったら、その他大勢の中央集権国家と同じように、王朝の入れ替わりが繰り返し起こり、世界に類を見ない日本の歴史的連続性が途絶えてしまうからです。私見ですが、信長が暗殺されたことも、天皇家の存続に対して幸運だったと思われます。

 

江戸時代に天皇家が比較的隅に追いやられたようなことを学校で習いましたが、決して江戸幕府は天皇家をないがしろにしていたわけではありません。その証拠に、天皇家の祖とされる神武天皇の墓と伝承されていた奈良橿原の田んぼの中の十坪ほどの一角を探し出して、見事な神武天皇陵を増築した事実があります。江戸時代のお伊勢参りの流行も含めて、これらは天皇家が権威の象徴として権力者にも庶民にも連綿として認識され続けていたことを示しています。 実際、江戸幕府が大政奉還という形式を踏んで、ほとんど無血革命で明治政府に移行できたのも、この徹底した権威と権力の分離がなかったら不可能だったでしょう。

 

明治になり、一見天皇家に政治的権力が移行したように見えますが、これは単に欧米列強に対する表向きの形式的な制度です。実際は、この1500年に渡って築き上げられてきた権威と政治権力の分離による「君臨すれども統治せず」という天皇の地位は日本人の心に沁みついてしまっています。そして、明治以降令和の現在に至るまで、その考え方をずっと保持しているのが日本人だと思います。

 

以上、日本人はすでに天皇家発祥の初期から、国家を統一するための権威を天皇として雲の上に起き、権力争いの基になる実務的な政治権力を地上の権力者たちに委ねる独特な権威と権力の分離の知恵を手に入れたことで、世界に類を見ない王朝の存続を可能にしたのでしょう。

(注)君が代についての蛇足:
君が代は必ずしも天皇家を讃えるだけの歌ではありませんでした。こんな話が書き残されています。ある大名から秀吉公に海苔をまぶした豆菓子が送られて来たときに、秀吉の側近で歌人でもあった戦国大名の細川幽斎に対して「なんと、なんと」と申されたときに、幽斎が詠んだ歌一首、

 君が代は千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまめ