哲学考 2 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

私は、日本民俗学が大好きなんですよ。この学問だけは西洋の学問をいくら勉強しても重要な寄与が出来ない。学問輸入業者の出る幕のない、日本人の全くのオリジナリティーが試される学問なのですね。

 

texas-no-kumagusuのブログ-熊楠  南方熊楠神(ネット画像より転載)

 

日本民俗学の雄、南方熊楠が『南方マンダラ』に書いた哲学に付いて引用しておきます。 

 

『南方マンダラ』 p181 

「されば、かかることは東洋にも多くありしにて、死んだらどうなるもんだろうか、天地は何の処に生ずるくらいのことは、村翁、馬子といえどもいうことなり。何ぞこれを哲は徹なりとかいうて、小むつかしく哲学哲学というべきや。いわば、一理屈こじつけたというほどのことにて、それは諸子というほどのことなり。故に小生は、ギリシャ・ローマの哲学などいうものは、決してそんなにえらいものにあらずということをいいしなり。何やら哲の字にくらまされて、なにか御光のさしたるようにおもうもおかしければ、子学というなり。フィロソフィールズとあらば、哲学者などといわずに、諸子というて可なり。また、サイエンチストも、理学者とか科学者とかいえども、中には得手勝手な無用のもの多し、必ずしも理を論じ科を分つにもあらず。これ百家と訳すべし。諸子百家の学ということ、『史記』の甘茂列伝、また『漢書』の武帝の挙士の詔にもありしと見え、支那の古えは多くありしことなり。インドにはなお多し。」 

 

『南方マンダラ』 p180 「予のいうところは、西洋人の口吻にならい、タレスが地は水より成れりとか、またエレアチック派の輩が、予輩は何ごとも保せず、否、予輩は何ごとも保せぬということも保せぬとか、また、アリスチップスが、人は目前のもの楽しまばすむことなりとか、ゼノーが人の行くは行くにあらずといい、プロテランドラスが善悪の性は空気にありて具わり、それを心でうつすときはたちまち善たちまち悪なりなどこじつけたことは、余輩、これを釈迦や竜樹のちゃんと一貫して述べたる、それこそ哲学ほどのものとは決して思わず。」

texas-no-kumagusuのブログ-南方マンダラ 南方マンダラ(ネット画像より転載)


もっと最近では、武田邦彦が彼のブログ(平成24年11月29日)で以下のように言っております。 

 

「「哲学」は愚劣で醜い学問であり、「物理」は美しい学問である、というと哲学の人はカッときて怒り出す。そこで「あれ、そんなことで腹が立つなら、あなたの哲学って大したことはないですね」と冷やかす。ちょっと批判されたぐらいで、相手の言うことも十分に聞かないで腹を立てるというのは「学問を学んでない人」 だと哲学者は言っているのだから。

 

実は、この問いには深い意味がある。人間は「生物」の一種であり、生物のDNAは「自己保存、種族保存」が完璧に行われるようにできている。それは実に巧みで、一見して自己犠牲に見えたり、矛盾しているように感じられても、人間の思考が及ばぬ所に「種族保存、自己保存」の狙いが潜んでいる。

 

「哲学」は「理性」で論理を構築し、結論を出す。だから、科学的には「自分の頭が正しいと考える事は、種族防御・自己防御の範囲内を出ることができない」という原理原則を克服することができないからだ。

 

そしてこの自己撞着を哲学が克服しうるかについては若干の研究はあるものの、真剣な考察はわずかしかない。多くの哲学者はうっかり哲学(政治学、法学、倫理学など)の道に入ったので、自己を防御したいという自己保存の殻に閉じこもっている。」

 

最近、私にとってようやく言葉になったことが在ります。それは、

 

「この世界には二つ重要なものがある。一つは事実で、もう一つは理念である」

 

です。ここで「理念」とは、我々の脳味噌が描き得るあらゆる整合した論理体系のことです。

 

我々は論理的に説明がつかなくても事実を認識することができる。事実を知ったり使いこなしたりするには歴史や自然科学を学ぶ必要がある。それに対して論理を使いこなすには数学を学ぶ必要がある。

 

事実の生起は出鱈目に起こるわけではなく、この世界の在り方ないし摂理に矛盾なく起こるものです。ところが、論理とか理念は、そんな自然の枠に囚われることなく、何でも考えることができる。だから理念は事実と全く無関係で無意味なことまで論じることができる。

 

私は以前から数学は物理学と違って、事実でなくて理念だけを論じる学問だと指導してきましたが、武田邦彦氏の話しを聞いていて、哲学も事実でなくて理念だけを論じる学問だと最近気付かされました。だから、哲学は自然の摂理とは正反対のことでも善しとしてしまう可能性のある危険な学問ではないか。これは結構ショッキングでした。

 

ところで、哲学に興味がある方に聞きたいことがあります。長年物理学の研究に勤しんで来た私の経験では、モンテーニュの所謂「破壊的懐疑論」の方が、それを越えたと言われるデカルトの「生産的懐疑論」よりも余程生産的でした。私の研究生活でデカルトの懐疑論が役に立ったためしは一度もありません。でも、モンテーニュの懐疑論は生産的な創造性を現出するのにもの凄く重要な役割を果たしてきました。

 

そこで、私には一つの疑問が湧いてきたのです。哲学って屁理屈を捏ねくり回して、時間潰しのエンターテイメント以上の役に立っているのでしょうか。ソーカル事件なんて、エンターテイメントの良い例ですね。ソーカル事件に馴染みのない方は、この言葉をネットで検索してみて下さい。笑っちゃいますよ。また、ヘーゲルの弁証法なんて言わないで下さいよ。あんなもの本気で研究生活を続けた者なら、誰だって人から教わらずに、その方法を使っていますから。だから、目から鱗なんてものじゃない。 

 

実は、私は、凄く真面目に、役に立った例を一つだけ知っているのですよ。それは、カントが真偽の分類をして、「分析的真偽」と「綜合的真偽」の違いを明らかにしたことです。これは、物理学者が数学のジャングルの中に絡み取られて出られなくなるのを防いでくれますので、大変有益な分類です。だから、哲学も役に立つことは確かにある。 

 

ところで、それ以外に、私には哲学が役に立った事例を知らないのですが、何方かそれを教えて下さいませんか?ただし、お答え下さる方に注文があります。例えば 

 

「x が -1 に限りなく近づくとき、x^2 は +1 に近づく」 

 

と言えば良いところをわざわざ厳密になって、 

 

「任意の正の数ε に対し、ある適当な正の数 δ が存在して、 0 < |x + 1| < δ を満たす全て実数x に対し、 |x^2- 1| < ε が成り立つ」 

 

と言ってみたり、2013.01.25の私のブログ『すばらしき文章』 で紹介したヒンデンベルグのような、時と場合を弁えない議論を展開しないようにして下さい。(終わり)