犬のアキの幸せ | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

人間はパックアニマルである、という言葉をご存じでしょうか。パックアニマルとはどうやら動物学者が使う言葉らしく、群れを作る動物、あるいは社会的動物と言うことです。我々の身近な動物の中で人間以外で代表的なパックアニマルとしては犬がおります。うちには「アキ」というメス犬と、「ラムダ」と「パイ」という二匹のメス猫がおりました。彼女等は皆寿命を全うして、十分過ぎるくらい長生きをしました。アキを見ていると、なるほど犬はパックアニマルだが、それに引替え、猫は明らかにパックアニマルではないということが良く分かります。人間も犬も数百万年をかけた自然淘汰の結果、DNAの中に集団生活をしなくては落ち着いていられない遺伝子情報が書き込まれてしまったのでしょう。

 

texas-no-kumagusuのブログ-アキ

 

 

このアキを見ていると、彼女を不幸にさせるのは簡単で、ただ、彼女の存在を無視すればいいのです。その反対に幸せにするのも簡単で、彼女の存在を認めてやればいいのです。彼女は、決して自分の欲望を満足させようなどとは考えていないらしく、シッポを振りながら

「ねえ、私って役に立つでしょう?あなたを喜ばせることなら、何でもしますよ」

と言いながら私たち家族に近付いて来ます。こちらの要求で彼女が何かをしてくれた時に、

「Good girl, Good girl」

と誉めてやると、シッポを千切れんばかりに振りながら喜んでいます。アキが幸福を感じているのは、私がアキの役に立っているからではなく、アキが私の役に立っているとアキが感じているからでしょう。

どうやら、人間も同じらしく、

「あなたって素晴らしい。私にはなくてはならない人だ」

と言われると、自分に自信が付き、幸せな気持ちになれることはみなさん何度も経験なさって居られることと思います。

マキュアベリのあの有名な『君主論』の中に、君主が自分の側近に絶対やってはいけないことについて論じている部分があります。マキュアベリは、先ず人間が最も耐えられない不幸とは何かを論じます。彼によると、人間は誰でも大きな悲劇には耐えられる。例えば、最愛の夫や妻を亡くしたとしても、あるいは突然財産を奪われたとしても、時間と共に悲しみは薄れて行くものだ。しかし、小さな悲劇でも、それが、毎日絶え間なく続く場合は、その不幸には耐えられない。だから、君主は側近をジクジクいじめたり、あるいは、気に入ったからと言って側近の妻を奪って自分の側女にするようなことは、決してしてはならない。その側近は、時々遠くから見える、かつての自分の妻を見るたびに、チクチクと心を傷付けられて行く。そして、彼はいつか、君主の暗殺を企てるようになるだろう。側近による暗殺は、どれほど慎重な君主でも決して防げるものではない。

女の問題ではありませんでしたが、明智光秀が信長を暗殺したのも、自分よりも身分が遥かに低い秀吉などを自分と対当か、あるいはそれ以上に可愛がる信長を見て、光秀は、毎日悶々としていたのが原因ではないでしょうか。

このマキュアベリの例を現在の我々に当てはめると、どんなものが、自分に振掛かり得る、最大クラスの不幸でしょうか。私が思い付くその一つは、多分、離婚に至る毎日の経緯の中にありそうです。突然相手から離婚を申し出られる例も多くあるでしょうが、お互いの熱が早冷めて何にかと相手のアラが見え出し、日々喧嘩が絶えないと言う状況が続き、結局離婚に至るという例もよく聞きます。喧嘩で伝わって来るのは「あなたは、私にとって何の価値もない、相手にもしたくない人だ」という信号でしょう。こんな素振りを、うちのアキに毎日見せていたら、きっとアキもノイローゼになり、不幸のどん底に落とされて行くでしょう。

 

ところが、反対にうまくやっている夫婦では

 

「あなたは、私にとって無くてはならない人だ。私は何とかあなたに喜んでもらいたい」

 

という信号をお互いに送りあっているはずです。この世の中に、たった一人でも自分の存在を喜んでくれる人がいるという感覚は、パックアニマルである人間にとってどんなに頼もしく、また幸福感を味あわせてくれることでしょう。お金や名声は確かに、人から頼られる切っ掛けを与えてくれるでしょうが、人間はお金や名声そのもので幸福感を味わっているのではなくて、その頼られると言う、言わば副産物でそれを味わっているような気がします。でもその頼られかたは、お互いの人格を根拠にしたものほどには当てになるものだと思えません。貧しい市井の人たちに幸福な人が結構沢山いるのは、どうもこんなところに理由があるのかも知れません。

 

柳田國男の『山伏と島流し』という文の中に、次のように書かれています。 

 

「 更くる夜の壁つき破る鹿の角     曽良 

 

島のお伽の泣き伏せる月        翁 

 

いろいろの祈りを花に籠り居て     等躬

 

『奥の細道拾遺』の句である。伊豆の島には對島五島などのやうに、鹿は住んでゐなかったから是だけは無理な附け方であるかも知れぬ。しかし鹿の角に破られるやうな小屋の中でも、尚多くの流人はお伽を見つけて共に住んで居た。八丈では其女を水汲みとよぶ習はしであった。それが男の懐舊談を聴いてもらひ泣きしたといふ、しをらしい情愛を咏じたものと思はれる。是がもし何人の實話で無くて、單に作者の作意に過ぎなかったとすれば、其想像力は寧ろ驚くべきであった。といふわけは多くの島の流人は、いつもさういう同情の深い水汲みを見つけて、それをたった一つの慰籍として活きて居たのが事實だからである。」  

 

昔は

 

「大きくなったら人の役に立つ人間に成りなさい」

 

と言われながら子供は大きくなったものです。悲しい事に、今の親達は「自分を大切にしなさい」と教えながら子供を育てています。パックアニマルである人間はいくら自分を大切にしても、喜んでもらう対象が他者でなくて自分である限り、幸福感を味わえるものではありません。人間のDNAにはそんな遺伝子は組み込まれて居りません。今の親達は、犬に猫になれ、と言ってるようなものです。

 

聞くところによると、問題児を立ち直らせるのに、自分より年下の身体傷害児や親を亡くしたかわいそうな子の面倒をみさせる方法があるそうです。その子のいわゆる兄や姉の役割をさせるのです。問題児は自分を慕い頼ってくるそのかわいそうな子の面倒をみているうちに、自分の存在にも意味があり、人の役に立つことが出来ることもあるのだと認識し始めます。そして自分に自信を持つようになるそうです。

 

ここまで来ると、犬ばかりでなく人間の幸せも意外に身近なところにありそうです。皆さんいろいろな夢もありましょうが、所帯をもったらお互いに相手を立てる努力を、その夢の実現の努力と共に、優先順位のトップクラスに持って来ることをお薦めします。運悪くその夢が実現しなくても、お互いに相手を立てる努力に成功したらアキのようにシッポが千切れんばかりの幸福感が味わえること、間違いなしです。