哲学考 1 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

哲学という名前からこの学問が何を論じる学問だか想像できますか。 学問をする人間の頭の良し悪しは、自分の理解した概念にどう言う名前を付けるかでも判断できるのです。意味透明にいきなり核心を突く。くだくだした精密な表現よりも、少々不正確でも、意味が直ぐ取れるような命名の方が優れている。命名法の不完全さはその学問の理解の深みに応じて、後から形容詞や脚注で補えば良い。例えば、生物学と聞いて、ジェットエンジンの性質を論じる機械工学の一部だと考える人はいませんね。

 

じゃあ哲学は? 実はこの名前は江戸時代末期から明治初期にもて囃された西周(にしあまね)によって付けられた、西洋語のフィロソヒィーの訳語だそうです。こんな意味不透明な訳付けるなんて、この人、馬鹿じゃないの。でもこの人切手にまでなっている。

 

 

texas-no-kumagusuのブログ-西周(ネット画像より転載)
 

 


フィロソフィーはギリシャ語 philos(愛)+sophia(知恵) だそうです。だから私だったら「愛智学」と名付けますね。まさか愛智学と聞いて愛知県を研究する学問だと思う人はいないだろうから、「愛智学とはなにか」なんて質問する者も、そんな題名で本を書いて儲ける輩もいないでしょう。西周の馬鹿さ加減で、日本の若者たちは「哲学とはなにか」なんて質問で、いらぬ時間とエネルギーをこれからも営々と無駄に使わされて行くのでしょうね。 

 

以下の文はモンテーニュの『エセー』第二巻第十二章「レーモン・スボンの弁護」からの引用です: 

 

「アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけてわれわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ 、好奇心を満足させるためでなく何であろうか。クレイトマコスは、カルネアデスの著書から彼がいかなる意見をいだいていたかを全然知ることができなかった、と言った。 エピクロスが著書の中に平易を避け、ヘラクレイトスが«スコテイノス»とあだ名されたのは何故だろうか。難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。

 

 彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である(ヘラクレイトス)。、、、 なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ(ルクレティウス)。」 

 

そういえば、哲学者は「仮言命法」「定言命法」「実存」なんて、始めて聞いた人には全く意味が想像できない言葉を使って、その業界以外の人々を煙に巻いている。まあ、昔の医者が、胃炎と言えば良いのにドイツ語で炎症のことをカタルと言ったから胃カタルと言ったり、死亡欄に「心臓が止まって亡くなった」と書くところを、「心不全で亡くなった」と書いたりして、こけ脅しで金を巻き上げていたのと同じですね。私だったら、これらの哲学用語に一言聞いて判るような訳語を付けますね。直ぐに思い付かなくても、一晩寝れば大抵のことは思い付く。 

 

他の例では、イデアなんて訳もひどい。言っておくけど、カタカナに直された言葉は立派な日本語ですよ。だからイデアは訳語です。ところでイデアを英語で綴ると idea だ。なんだ、アイデアのことじゃんて解る。んで、哲学者は何でアイデアに特別な意味を持たせるんだろうと興味も湧いてくる。でも、イデアと言われると定理1だのアクシオムAだのと言われている単なる符号みたいで、少なくとも私にはアイデアとの関係が見て取れませんでした。 簡単に言えることをわざわざ難しい言葉を使っていうのが、似非インテリの特徴です。日本の哲学学者のほとんどの人たちはオリジナリティーを全く感じさせない哲学輸入業者として西周の正当な継承者なのではないかしらと、皮肉の一つも言いたくなりますね。(つづく)