元和6年(1620)。
有馬豊氏が、田中忠政の病没、改易によって、筑後南部を拝領した時の事。
福岡の黒田長政が豊氏を見舞いに来て、ふと、
「そういえば有馬殿は、どこに居城になされるのですか?」
と、聞いてきた。
豊氏は、
「田中家の時と同じく。久留米を居城にしたいと考えております。」
と言う。
これに長政。
「あなたの領地は九州の真ん中にある国であり、
どの方向からも敵を受ける可能性があります。
で、あれば、居城も中心部におかず片方に寄せ、
我が領地に近い場所に居城を、御作りになるべきではありませんか?
そのようにいたされれば、普請のために使う木材なども、
手近ですから我が領地から、送って差し上げられますに。」
この助言に豊氏も、
「いやいや、これは懇ろなるお言葉、痛み入ります。」
と、丁重に礼を申し述べた。
さて、その後、豊氏、長政の助言を完全に無視して、やはり久留米を居城にした。
この件に関して豊氏は家臣たちにこう語ったそうだ。
「黒田のやつめ、あれは九州に動乱が起こったとき、
速やかに筑後を手に入れるための策略だよ。」
元和偃武もかなりたったと言うのに、
まだまだ野心満々(と周りから見られている)の、
黒田長政なのであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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