下野九兵衛の最期☆ | げむおた街道をゆく

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大坂の陣の際、長政君は大阪屋敷に下野九兵衛というものを置き、

筑前から大坂へ上る米穀の管理を任せていた。
 

九兵衛は内々に秀頼卿に通じ、ひそかに蔵を開いて多くの米穀を大坂城に入れていた。
秀頼卿は大いに悦び九兵衛に金子と感謝の書状を渡していた。
 

大坂城没落ののち、長政君が米穀の勘定を九兵衛に命じたところ、

露見は免れないと思い九兵衛は妻子とともに逐電した。
 

なお孝高君(如水)・長政君ともに秀吉公に忠義を尽くしたことは世に知られていたため、

九兵衛の独断ではないだろうと言う人もあったとか。
 

長政君は深く憂え、吉田重成に九兵衛の捕縛を命じた。
重成は瘧を病み、まだ癒えていなかったが長政君の許可を得て無紋の帆を上げた船を出し、

家臣三人とともに福岡を立った。
 

こうして酒樽や魚籠の商人の扮装で兵庫を探索していると、

下野九兵衛が長く使っていた下人がいたため村山理兵衛が尾行し、

山上の小さな寺に入ったのを確認した。
 

病が小康に入った重成は大いに喜び、寺に行き様子を伺うと、

九兵衛は臥して謡をうたっていた。
 

重成は直ちに庭の戸を開け入ると、九兵衛は確認するや刀を取り、
「吾子(ごし)尋ね来たるべしと兼ねて思いもうけたり。」

と刀を抜いて立ち向かってきた。
 

重成も刀を抜き、家臣三人も棒や刀で取り囲んだ。
九兵衛は重成に斬りかかってきたが重成も刀で受け、理兵衛は九兵衛の右腕を掴み、

後の二人も前後から抑えて縄をかけた。
九兵衛の家人三人も裏から出てきて脇差を抜いて斬りかかってきたが、

重成と家臣たちが立ち向かうと逃げていった。
こうして九兵衛、その妻、幼い娘、下女二人をからめとり船に乗せて筑前に帰還した。
 

長政君は大いに悦び、九兵衛を怡土郡高祖村に籠居させ、

門番に堅く守らせ、駿府にことを告げた後、誅伐なさったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 関ヶ原の功労者、黒田長政

 

 

 

ごきげんよう!