慶長5年(1600)、9月15日、関ケ原の決戦である。
このとき、石田三成の陣には、前方に柵を作り城戸を立て守りを固めてあったが、
ここに黒田長政の部隊が攻めかかった。
すると石田陣の柵の内より、石田家の侍大将・島左近が片手に槍をかかげ、
片手に采配を持ち、かかれかかれと100名ばかりの徒武者を、
引き連れ出撃してくる。
この時どういうわけか左近は、6・70人ほどを柵際に残し、
30人ばかりを二十間(約36メートル)ほど先に進ませ、
いかにも静かに攻めかかった。
黒田長政も三十騎ばかりを下馬させこれに当たらせ、槍の穂先が触れ合うほど接近し、
互いに睨み合う。
しかし後ろの備えを含めれば、人数は石田隊のほうが多く、
黒田隊の不利は明らかであった。
と、その時である。
黒田隊において鉄砲隊を預かっていたのは菅和泉(六之助)であったが、
彼は部隊を右手にあった小高い場所に駆け上がらさせ、
50挺の鉄砲を隙間もなく撃ちかけた。
これにより石田隊の先に進んでいた兵たちは多くが撃ち殺され、
あるいは負傷し、島左近も生死不明ながら銃弾の餌食となった。
ここに敵のひるんだところを、黒田隊は得たりと勇み、即座に突き崩し多くの首を得た。
島左近は深手を負って下人たちが肩に担いで引き退いたため、
後ろに備えてあった70名ほどの兵も、一戦もせずに引き上げた。
黒田隊はその勢いのまま石田陣の柵の中にまで乱入し、難なくその陣を突き崩した。
さて、この一戦において黒田隊に勝利を呼び込んだのは鉄砲隊の活躍だったが、
彼らが活躍したのも当然理由があった。
この鉄砲隊に選ばれた足軽たちは特別に選別され、
又者(陪臣)であっても鉄砲の上手で、
なおかつ心の健やかな者を選んで編成された部隊であった。
そのため、効果的な攻撃が可能だったのである。
後にこの鉄砲隊の者に、
「敵との距離はどれほどあったのか?」
と尋ねたところ、
「あの時は一町四・五反(およそ150~60メートル)以上ではないと判断し、
そこを少し計算して撃ちました。」
と言っていた。
関ケ原において島左近を撃つ殊勲をなした、黒田軍の鉄砲隊についての話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!