黒田官兵衛といえば、毛利家中でも「黒官殿」の略称で親しまれ、
毛利の家臣たちをキリシタンに引きずり込むほどの影響力を誇った。
それは官兵衛が、毛利家と秀吉との間でこまめに働いて、
信用を勝ち得たからこそで、
特に吉川広家とは文通したり、
広家が秀吉の養女(宇喜多秀家の実姉)を娶る際には、
嫁入り行列に付き添って新庄にしばらく滞在するなど、
それは親しく付き合っていたようだ。
なぜ官兵衛がここまでしたかというと、こんなわけがあったらしい。
「黒田は先年より秀吉公へ吉川家の事取り次ぎ給ふのみならず、
経言(広家)世に優れて容貌美麗に御座しければ、
断袖分桃(男色のこと)の好み深かりける故、
世に親切に思い給ひ、万事の後見を作し給ひけり。」
出典は「陰徳太平記」なので、吉川のことについては詳しい。
ひょっとしたら吉川家中では「黒官殿はウチの殿様に懸想してる」という認識だったのかも。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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