黒田如水の晩年の頃のこと。
息子・長政に、こんな事を言った。
「わしはな、貴所(長政)の公儀上手に感じ入っておる。
今後は知らぬが、今までの両御所様(家康・秀忠)の御前、
そして幕府高官たちとの関係において、
お主はいささかの失敗もすること無く御奉公しておる。
これを公儀上手と呼ぶのだ。
わしなどは太閤様の前で2度しくじった。
1度目の時は播州の寺社でしばらく蟄居したなあ。
近年は九州のことで叱られた。
先の関ヶ原の時は、わしの行動が御所様(家康)の構想と全く噛み合わなかった。
あの時はこうだった。
お主は東で御所様のお供をしていた。
わしは国元にあって隠居の身だったが人数を抱え隣国の豊前で働き、
30日ほどでこれを討ち従え、その後金吾殿(小早川秀秋)が、
留守にしている所領の仕置を行い、
筑前の立花左近(宗茂)の城に軍勢を寄せた時、
薩摩討伐のお触れが来た。
この時、加藤肥後守(清正)殿は、薩摩に接する国の領主であったので、
先の立花殿と講和をし、
それから肥後を出発し薩摩との国境まで詰め掛けたところで、
『当年中は薩摩に仕掛けてはならぬ。早々に引き上げるように。』
との命令が来たため国元に帰った。
我らは東と九州の二ヶ所において御所様に御馳走いたした上は、
お主とは別にわしにも国や知行が拝領されるものだと信じきっていたのだが、
そのような御内意は一度もわしの元に届かなかった。
どうやらわしが隠居の身の上だというのに、
お主の留守にその金銀を取り出し豊後や、
その他に手出ししたことを不似合いだと思われたようだ。
本来ならお主の城である中津城に引き篭もり、
世間の成り行きやお主の動向などを注視することこそ然るべきだったのに、
隠居の身であのように働いたことが不似合いであると思われた。
それ故に、わしの国元での働きは御意に召すことが出来なかった。
わしはな、太閤様の時代に、
『一角の大名になってやる!』
と思っていたのだが、そうは成れなかった。
関ヶ原の時も又、同じく出来なかった。
我が心のことながらわしは、自分を過大に評価しすぎているのだなあ。
太閤様も御所様も、
『黒田如水という人物に見合うのはこの程度だ。』
と見切っておられたのだよ。
太閤様のわしに対するお目利き、御所様のわしに対するお目利きは少しも違わない。
これには感動するほどだよ。
この上はな、わしは浮世を捨てようと思っている。
歌道三昧の生活をしようか、あるいは月見花見の遊山をして過ごそうか。
お主はこの如水の身の上をどう待遇したものかと能々考えていたようなので、
その為ここでこの事を、申し聞かせてやったのだ。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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