もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら☆ | げむおた街道をゆく

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黒田如水は関ヶ原の後、徳川家康へのお目見えのため上洛し、

京都狼谷に宿泊していたのだが、
その宿舎には諸大名たちは言うに及ばず、

越前中納言様、当時は三河守(結城秀康)からは、
日々御使者が送られ、度々自身御見舞され、懇ろに饗すという、

類少ない扱いであった。
その他、徳川家の御旗本衆、御近習、外様衆、更には牢人衆など、

訪問者が門前市をなすありさまであった。

こういった状況を心配したのが、

久しい如水の友人である山名禅高(豊国)であった。
彼は如水を尋ねるとこの様に忠告した。

「諸大名衆が色々と訪問する場所がある中、あえてここに参られるというのは、

一体何の御用があるのか?
人目を避けて夜から明け方まで御密談なされているという。
牢人衆の事も、一体どんな理由があって、ここに大勢入れ込まれているのか?
特に三河守殿に関しては、3日と開けず御使者を使わされ、

ご自身による御見舞も度々のことだという。
私がその場にたまたま居合わせた時に見たが、

三河守殿はまるで親を崇めもてなすように、心がけられていた。

その様なこと、家康公にとってお気に召すはずがないではありませんか。

ご存知のように内府公は単純な人ではない。

いかにも親しい体の出入りの衆の内に、

内府公の横目(監視役)もきっといるだろう。

きっと内府公は、如水は面倒な相手であると思われていることでしょう。
それでは立場はどんどん悪くなり、さらにもっと大事を引き起こすと考えます。

現在、筑前守殿(黒田長政)の幸福は極まっていて、

当代肩を並べる人も稀な程です。
ご自身の様子、人からの評価、内府公からの信頼、

今の日本において彼よりも幸福な人は2,3人も居ないでしょう。

そうであるのに、貴老のそのような、現在の御作法では、

筑前殿のためにも然るべからざるものでありましょう。
ここは、同行させてきた家臣も大方国元に返され、

病気療養として静かに在京されるべきでしょう。

天下が治まったというのに、『未だ治まらず』と、

徳川家の御旗本が警戒しているのは、大方貴老の事を念頭にしている事であると、

世の中では申し散らしている。無論邪推ではあるが、
天に口無しとも言い、猶以て警戒しなければいけないことです。

真偽は知りません。ですが醍醐・山科・狼谷・六地蔵・宇治・その他京に、

近い在家に牢人であるとして、
侍たちが方々に居住しているが、これは如水が隠し置いている人数であると、

もっぱら噂されています。
返す返すも大変なことだと思う。あなたはこれについて、

その様に見られている事への御覚悟を
持っているのか!?」

このように繰り返し繰り返し意見した所、如水は言った。

「禅高、よく聞いて欲しい。

もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら、

関ヶ原の折、
九州において数ヶ国討ち取り、島津だけが手に入っていないは国境まで押し詰めていた。
あの時彼らを蹴散らすにしても味方に引き入れるにしても、

さほど時間はかからなかったであろう。
そうして九州を掌握した上で甲斐守(黒田長政・当時)を引き取り堂々と、

家康に敵対するという我らの方針をはっきりさせて、

当時中国地方、備前、播磨は空き国であったし、我々には2万余の人数があった。

これを以って陸海を押し上がり、道中牢人や侍たちを吸収しつつ、
内府との出会い次第に合戦を行えば、天下が私の掌中に入った、

ということもありえただろう。

だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために、討ち取った国を捨て、

下鞘一つで上洛したのだ。
特に筑前守は大国の主になったので、心安く養われ、

後は後生に願いをかけているだけの状況である。
そんな私に何の用心、何の気遣いがあるだろうか!?
あなたの言ったような風聞には、このたわけ共はそんな事を言っていると聞き流し、

真実とは考えないでいただきたい。

少しでも私のことを知り、会話をしたことのある人間なら、
その様に思うことはない!」

そう、扇で畳を叩き、まったく取り付く島もない有り様で主張したので、

禅高も呆れてしまい、もう何も言わなかった。

やがて禅高の言ったように、京大阪の牢人に対する取り締まりが厳しくなったが、

徳川家の老中のうち黒田長政と特に親しいものより、

密かに連絡があったため、如水と親しい牢人たちは俄に取り散ったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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