武士の心得たるべきこと☆ | げむおた街道をゆく

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慶長5年(1600)、その前日に石垣原の戦いに打ち勝ち、

大友義統を降伏させた黒田如水は、
実相寺山の本陣に、共に戦った細川家の松井佐渡(康之)、

有吉四郎右衛門(立行)の挨拶を受けた。
その座には、黒田家の重臣たちが列座していた。

松井が如水に申し上げた事に、
「それにしても此の度の合戦では、井上九郎右衛門(之房)殿の手柄は、

兼ねて聞いていたよりも増して、目を驚かされました。

また九郎右衛門殿が敵と戦っている時、茜のしないの指物をさした武者が、
その手勢を引率し、真ん丸になって敵の横合いに懸かった働きは神妙の至であり、

こうやって説明するのも愚かに思えるほどです。

また、その勢の中にあった大指物をさした武者が、特に良い働きをしており、
非常に目立っておりました。」

如水はこれを聞くと
「茜のしないの指物とは、そこの末座におる野村市右衛門の事です。」

といって指差し、
「彼は母里太兵衛(友信)の甥であり、16歳より度々戦場に出て、

所々の手柄の数もまた多く得ました。
一昨日の働きなどは、特に珍しいものではありません。

大指物をさした方は、その野村市右衛門の与力で大塩喜平次のことです。
また、今度討ち死にした久野次左衛門は母里太兵衛の婿でした。

彼は常々、野村市右衛門と武勇を争っていたのですが、

その志を立て、終に討ち死にを遂げました。」

と語った。すると松井は母里太兵衛の方を向いて

「次左衛門殿の事、ご愁嘆されていること、お察しいたします。

しかし市右衛門殿の高名は、
嘆の中の悦でありましょう。」と言った。

松井・有吉が帰ったあと、如水は家臣たちに向かってこう語った。

「武士が戦場にのぞみ、自分の戦功を専一に心がけるものであれば、

左右前後の味方の働きを観察するような暇はないはずだ。

たとえ見たとしても、人に向かって語るにはその心得を持って行うべきだ、

ところが、松井が一昨日の石垣原で見て来たという先ほどの話は、

あまりにも詳しすぎる。
一心の働きを心がけなかったかのように聞こえて、非常に悪いものだった。

有吉の方は、その心得があったのか、周りの働きの噂はしなかった。

これこそ、武士の心得たるべきことだ。」

そうのたまわれたのである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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