日本一の大たわけは、甲斐守である!☆ | げむおた街道をゆく

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慶長5年(1600)、筑後の黒田如水の元に、

小西行長の居城・宇土城を開城させた加藤清正が訪れ、
如水と軍評定を行い、薩摩に攻め込む軍略を話し合い、先ず清正を先に立て、

肥後を通って薩摩との境、浅敷・水俣・湯ノ浦に軍を集結し、

不日に薩摩に攻め入るべし、といった内容を確認し合った。

この時、黒田如水の軍勢は、彼が挙兵した頃にはおよそ9千。

1万に足らないほどであったのだが、
熊谷内蔵充、筧和泉守、福原右馬充、太田飛騨守、

毛利民部大輔、毛利壱岐守など西軍の将の配下たちを望み次第に抱え、

その他筑前、筑後の牢人たちが、我も我もと馳せ加わったため、

今や事々しい大軍となっていた。

その上、加藤鍋島も幕下に属し、

如水も「この上はどんな望みでも叶う。」と面白く思っていた所、

子息甲斐守(長政)より急な使者が届いた。
使者は如水の前で報告する。

『今度天下分け目の決戦、内府公(家康)勝利を得られ、

石田治部少輔は一戦に打ち負け、
敗北し伊吹山中の民家において生け捕り。

大谷刑部少輔は戦場を去らず自害。

小西・安国寺はどこどこにて生け捕り。

すなわち大路を引き回され、三条河原にて獄門にかけられました。

毛利輝元・金吾中納言(小早川秀秋)は、

甲州様の御計略を以って裏切りをなさったため、御国御安堵。
さてまた美濃、神戸川、また関ヶ原では二度、

甲州様はご自身でお手柄をなさいました。
この事やいろいろな方面でのお働き、内府様へのご忠節、

人に超えたものである故、

内府様も甲州様の意向を聞かずに何事も決めないと、

いかにも入念に語られました。

この上は天下静謐になりましたので、

九州での弓箭(合戦)はお止めください。』

これを聞いた如水は、したたかに腹を立てて怒鳴った。

「さてさて甲斐守、いくらまだ若いとは言いながら、

なんと知恵のないことだろう!
天下分け目の合戦とは、そのように急いでやるものではないぞ!
何としてでも長引かせ、牢人に口過ぎをさせ、

方々にて合戦があれば敵味方ともに、もし歳が行っていれば、
老年の慰みとなるよう、若者は、老いてからも人として生活できるよう、

武功を立てさせるようにさせることこそ、人を引き回すものの役目である!

それなのに、今の状況で天下が治まっては、

我が軍に集まってきた牢人たちは餓え死にしてしまう!
しかも集まってくる牢人は、一日一日増えているのだぞ!?
全く以て、物を知らぬ日本一の大たわけは、甲斐守である!!
どうしてそんな忠義立てをして、あれをくり分け、

これに裏切りをさせ、それほど急いで家康に勝たせて、
一体何の利益があるというのか!まったく残念多き事である。

上方が治まってしまった上は、もはや是非に及ばず。」

そう言うと不機嫌な表情のまま、中津川の城にすごすごと引き上げた。
表向きはこの様であったが、その内意については計り難いものであった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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