関ヶ原の役が起こると、中津に在った黒田如水は、
兵を集めるためこうお触れを出した。
『諸浪人、親掛かりの者をはじめ、歳寄って隠居した者、
百姓、町人、諸職人によらず、
望み次第何者であっても罷り出でるように。』
これに人々、我も我もと罷り出た。
もちろん武具一式を持たない者達多かったので、
黒田家では普段出入りの業者より古い捨て道具などを乞い集め、
鞍骨を一緒に乞い、切付、肌付を片方ずつあてがい、
轡、片鐙は縄で、具足の無い者には紙羽織の後口に朱にて紋をつけ、
兜のない者には竹の皮笠の周りに四手を付け、
痩せた馬に乗り、中間一人に馬を引かせて槍を持たせるような者も多かった。
しまいには、知人の陣屋に飛び入り、
これに馬人養われて陣を務めるような者もあった。
その者が言った、
「このような見苦しい体では出陣すべきでないと思われるかもしれませんが、
私も若い時は侍の真似をしていました。
しかしこの国が京から来た人(黒田家)の物となり、
私は本領を離れ、詮方無く百姓をしていましたが、
慣れぬ業ですから、口を過ぐる事も出来かね、
餓死にも及ぼうかという有り様を口惜しく思いながら、
自害することも出来ず遺恨に思っていた折、
思いもよらず乱が起こり、先祖の家業を継ぎ、
もう一度侍の真似を仕り、討ち死にできることの嬉しさよ!」
また、職人にもこのたぐいの参加者が多かった。
笠冠をかぶった百姓の中の、
樋田山城守・小城源兵衛という者は、昔の代には一城の主であり、
人をも引き回し、度々手柄を仕った者達であった。
また職人たちが俄に侍になった事について、
日頃より関係の在った裕福な町人たちがこんな意見を言った。
「親が何であったとしても、入らざる武士立てである。
今の分で、鉄などを吹いていたほうが良い。
きっと炭や地金の代金がなくて、それを惜しんで参加したのだろう。」
そう言って笑った。
この時笑われた職人たちは、
戦後正式の武士となり知行を取ったものも多かった。
金は失せやすいものであり、笑っていた金持ち達は、
程なく財産を失い、乞食となり、
笑われた者の知行の内に行き小さな屋敷に乞い、
鉢を開き、終には餓死したものもあった。
こういった者達がもし思い立っていれば、その頃裕福だったのだから、
一廉綺麗に支度もあい調ったであろう。
元来侍の果てでもあったのだから、
武士として取り立てられ知行取りに成ったこと疑いないのに、
その気性が甲斐ないために、そういう将来を捨て去ってしまったのだ。
とにかく侍というものは、とりわけ気概を持たない者は、
何の役にも立ち難いと見えたり。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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