上方における石田三成の反乱が、
黒田如水のある豊前中津に聞こえたのは、
慶長5年(1600)7月初めのことだったという。
如水はこれを聞くと重臣たちを集め、緊急に兵を募集し、
城の破損箇所の修理などの戦争の準備を申し付けた。
と、そんな事をしている最中に、石田三成から如水の元に密かに使者が訪れた。
使者が如水に伝えるに、
『徳川家康は何事も我意に任せ、秀頼様を蔑ろにされ、
万事太閤様の御遺言に背きました。
そのため家康に腹を斬らせ秀頼様を取り立て申し上げようと、
太閤様お取立て御重恩の者共の間で意見の一致を見ました。
如水殿のこと、もとより太閤様からの御恩の厚さは世に隠れない事ですので、
まさか我らの行為を悪く思われる事はないでしょう。
ですので是非、我々と一味同心していただきたいのです。
ご同心いただけるなら急ぎ上洛してください。
あなたは古くからの武功の士なので、今後の方針など、
諸事あなたのご指図次第にしたいと考えています。
秀頼様の天下となれば、所領としてどこの国を欲されてもお望み次第です。
甲州殿(長政)は家康に付いて関東へ下られましたが、
彼も急ぎ呼び戻されるべきでしょう。』
如水、これを聞いて使者に、
「治部殿(三成)の今回の企ては尤もな事だと考えている。
この愚老、太閤様より受けた重恩は他人を超えた、
古今稀なるものであること、
治部殿も既にご存知のことであれば申すまでもあるまい。
秀頼様の御為とあらば、何事においても粗略にはいたぬ。
…ところで、先に国は望み次第と言われたが、
こう言う事は今のうちに話を決めておかないと、
後で違却だの何だのと問題になってしまうものだ。
そこで、我々としては九州のうち7ヶ国を給わることが出来るのなら、
そちらにお味方仕り、家康退治のご計略に粉骨いたそう。
であれば、これを確実とするため誓紙を頂きたい。
その誓紙が治部殿直筆であることを確認させるため、
その方に我が方からの使者を添えて上方に送る。
そこで治部殿の内意を直接、我が使者に申し聞かせていただきたい。」
と、宇治勘七というものを上方に派遣させた。
これを聞いて困惑したのは、黒田家の重臣たちである。
「治部少輔に内通するなどすべきではありません!
既に甲州様は家康公にご同心して、
関東にお下りになっているのです!
そこで大殿が治部少輔一味となれば、
甲州様のご身体、一大事となることでしょう!」
彼らはそろって如水に諫言する。
が、如水いかにも意外そうな顔をして
「お前たちも不合点な事を言うものだな。
周りの状況をよく見てみろ、隣国は皆敵(西軍方)となっておる。
ここで三成の言葉に従っておく姿勢を見せないと、すぐに周りから攻められるぞ?
こっちは未だ戦備が整っていないのだ。
向こうも、わしを騙しに来たのだ。
ならばわしも向こうを騙し、
せいぜい戦備のための時間稼ぎをさせてもらうのさ。
わしとて未だ、耄碌はしておらんぞ?」
と、笑ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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