文禄4年(1595)の頃、豊臣秀次は関白職にあり、天下の人々はこれをあがめ尊んだ。
然れども秀次は、元来強悪の人であったため、その奢りは日々盛んとなり、
常に酒色に溺れ遊宴を事とし、政道に心をかけず、余人を殺すことを好み、
その暴悪極まりなしといった有り様であった。
黒田如水は、これを憂いて、秀次に諫言をした。
「秀吉公は若年より、弓矢に辛労されたこと数十年に及び、
漸次天下草創の功を成し遂げられました。
そして今、年齢は既に六旬(60代)になられ、
朝鮮征伐のため自ら名護屋に下り、
日々軍事にお心を苦しまれておられますれば、
御精力尽きてお命も縮まることでしょう。
ところで、貴公は一体何者ですか!?
太閤殿下の御子ではありません。
また同姓でもありません。
たまたま太閤殿下の御寵愛があって、父子の約束をされ、
数ヶ国を領し、いまそのように関白の位に上り、
天下の人々から仰ぎ尊ばれ、栄華を極められています。
これは一体、誰の恩ですか!?
その上、太閤百歳の後(死後)、
後を継ぎ天下を保たれる人は、貴方でなくて誰でしょうか!?
今、太閤殿下が名護屋に下り、朝鮮の軍務にご苦労甚だしいのを知りながら、
太閤殿下に変わって名護屋に下ろうと思われるお心もなく、
京都にいながら日夜遊興酒食をのみ好まれ、身を安楽に置き、
太閤殿下の御恩を忘れられていること、不孝の至であり、
天道の憎まれることであれば、必ず御身の災いとなるでしょう。
よくよくご思案なされるように!」
そう言ったが、秀次は終にこの諫言を用いず、
また秀吉に変わって名護屋に下ろうと思う心もなく、
悪逆もなお止まなかったため世の人々は、
漸次彼を疎むようになっていった。
そして秀頼が生まれ、秀次の威勢も衰えたが、関白職を秀頼に譲る心も無かった。
そのような中、この年の7月上旬、
秀吉に対して秀次が謀反の企てをしたとの情報が聞こえ、
秀吉は検使を遣わして、秀次を高野山で切腹させた。
如水の諫言を用いず、この様になってしまったことは、
頑愚の至りというべきであろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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