天正18年(1590)、小田原の役の時の事。
豊臣秀吉は、大軍で日々小田原城を攻めたが落城させることが出来ず、
無為に日々を多く送ったため、諸軍の士卒も長陣に退屈しているように見えた。
ここで秀吉は、この時、尾張清須に居た小早川隆景を呼び出し、
はかりごとを協議した。
隆景は秀吉の諮問に答えて、
「この度の長陣は、損害なく勝利するための基礎でありますから、
現在の方針をより一層進めるべきであります。
すなわちこの先は城攻めも止め、弓鉄砲も留められ、
仕寄等の設備を入念に構築し、敵が夜討などを出来なくするよう、
用心堅固に仰せ付けられ、若き者には音楽をさせ、下々には小唄を歌わせ、
踊りを踊らせ、味方の気をくつろがせ、長陣の覚悟をさせ、
敵の気が先に屈するようにする。
これが宜しいかと思います。」
秀吉はその旨に従い、全軍にこれを下知した。
すると味方の諸軍は戦をやめて、至る所の陣所で謡舞囃子の音、
踊りの声が頻繁に聞こえるようになった。
これにて味方は長陣の窮屈を忘れたのである。
そして敵の小田原城は、これを聞いて気を屈し、力が弱まった。
その後、黒田如水、小早川隆景は敵の気が屈した時節を考え、
「今ははや良き時分です。徳川家康は東国の案内者であり、特に北条とは縁者です。
ですので、家康とご相談をし、和議を提示すれば、
北条は城中で気を屈している時節ですので、
必ずこれに同意するでしょう。」
と申し上げた。
秀吉も、いかにもその通りだと思い、北条氏直は家康の婿であるので、
北条を降参させるため、
秀吉より家康との相談のため、黒田如水に家康への使いの命令が度々出された。
ある時、如水が秀吉の使いを勤めて家康の御前を立ち去った後、
家康は如水のことを、
「西国において第一の弓取りは、黒田勘解由(如水)である。」
と賞賛したそうである。
この頃、黒田如水は秀吉の用の無い時も、
しげしげと家康のもとに通い物語などをした。
これにより如水は、家康に君徳の有ることを知り、
志を通じるように成ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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