天正14年(1586)7月より始まった豊臣秀吉の九州征伐。
豊前方面は毛利家の吉川元春、小早川隆景、宍戸隆家が担当し、
黒田官兵衛が横目付としてこれに付いた。
彼らは小倉の近く、午房ノ原と言う場所に陣を構えたが、
そこから四里ほど離れた場所に宇留津城という城があり、
ここには敵方である高橋元種の配下、『かく』とい言う男が城主として、
3千ほどの兵と共に立てこもっていた。
この『かく』というのは野盗の大将で、豊後国内のことは隅々まで知っており、
彼は毛利勢が着陣すると、毎晩その陣に夜討ちや強盗を仕掛け、
被害こそさほどでもないものの毛利勢は気を休む暇もなく、
非常に混乱したらしい。
さて、ここで黒田官兵衛が提案をする。
「薩摩方面からの情報によると、あの宇留津城には豊後周辺の悪党どもが集まり、
立てこもっているらしいのです。
彼らを残らず討ち果たし、豊後や近国の野盗の種を絶とうではありませんか!」
このようにして討伐と決まり、11月6日の夜半より軍勢を動かし、
翌7日の五つ(午前7時頃)城を完全に包囲。
大手を担当した黒田隊の攻撃を合図に四方より一斉に攻めかかり。
その日の七つ下がり(午後4時頃)には場内のもの、一人残らず討ち果たした。
討ち取った首の数、2千あまりに及んだという。
さてさて、ここで問題になったのは首実検である。
毛利側は官兵衛にこう言ってきた。
「本日の首実検ですが、これは毛利家の戦ではなく、
天下様(秀吉)の合戦である以上、天下様よりつけられた、
横目付であられる黒田官兵衛殿にしていただくのが当然と考えます。」
なんと、兵士の論功を決定する、ある意味合戦において、
大将が行うもっとも重要な作業である首実検の権利を、
官兵衛に譲るというのだ。
これに官兵衛、
「とんでもない。この軍の大将はやはり毛利殿であり、
毛利側にて首実検を行うべきと存じます。」
「いえいえここは黒田殿が」
「いえいえ毛利側で」
「いやいや」
「いやいや」
「…」
このゆずり合いは終日、果てしないほど続いたということだが。
最終的に毛利側から「何としてでも黒田殿に!」との決意が表明され、
そこでついに官兵衛が実験をすることになったという。
そんな、九州征伐の時期の、毛利の秀吉に対する気の使い方がよく現れている逸話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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