官兵衛からの恩☆ | げむおた街道をゆく

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天正14年(1586)12月、この頃、九州の内、

所々の国人たちは豊臣秀吉の威勢盛んなる事を知らず、
島津に属し、未だ秀吉に従わないものが多かった。

この事を黒田官兵衛は思慮し、「計略を持って味方に引き入れるべし。」と、
筑前、筑後。肥前、肥後、所々の城に廻文を遣わした。
「廻文は万一露顕したとしても、それはそれで敵を疑わせる謀ともなる。」
そのような考えのもと、この計画を進めた。

官兵衛は遣いに才覚あるものを選び、

貝原一兵衛、久野勘助と言う者両人に廻文を持たせ遣わし、
口上にも、秀吉公の武威が盛んなることを述べ、

『味方に参られれば、秀吉公に良きように申し上げ、本領安堵いたしましょう。
ただし小身の人々が島津と手切れしては、その身の禍ともなるでしょう。
ですから、内々に志を通じ、殿下の御下向を待って降参いたして下さい。』

そういった内容を細々と説明した。

貝原一兵衛は、小倉より海路を経て筑前筑後を過ぎ肥後に赴き、
久野勘助は陸より筑前に入って秋月に至り、筑後を過ぎ、

また、豊前の所々をうち巡り、
各々、廻文を出し口上を述べれば、多くはその旨に従い、

密かに味方に参る旨を内通し、
よって秀吉公の九州下向の時、速やかに降参するものが多かったのである。

官兵衛はかねてこの内通を、秀吉に申し立てしておいた。

そのため、多くは本領安堵を受けた。
これによって、肥前の鍋島、松浦、大村、肥後の相良、

日向の伊東などはその家恙無く、
黒田官兵衛からの恩を強く感じていたのである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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