天正10年、本能寺の変を知った羽柴秀吉はいわゆる中国大返しを行う。
そして敵中を突破し、ついに当時の秀吉の本拠地、播磨へと入った。
播磨の首府である姫路の近くまで来ると、秀吉の配下は上下を問わず、
私宅に帰って一宿したい、と望んだ。
さらには秀吉すらもそのように考えているようであった。
この時、黒田官兵衛は秀吉に言上する。
「姫路に寄ることなく、直に上方に向かって上られるべきです。
たとえ仮初の旅であっても、家を出立するのはグズグズと遅くなってしまうものです。
あまつさえこの度は戦です。
大和の筒井順慶、細川与一郎(忠興)などは日向守(光秀)昵懇の者たちです。
特に細川に至ってはその婿です。
もし彼らが光秀の味方に付けば、これは難しいことになります。
たとえ彼らが心底、光秀に味方しているのだとしても、
合戦の場に乗り込まないうちは、双方の勝負を見守ることになるでしょう。
また、光秀に時間を与え、しっかりと備えを固められてしまっては、
これも重大なことになります。
この度は少しでもお急ぎなさること。それが肝要です!」
秀吉はこれを聞いて、
「よく言った!私もそのように思うぞ!」
と賛同し、
『下々の一人たりとて姫路に寄れば、討ち捨てる。』
との軍令を出した。
さて官兵衛、実は1日前に姫路に飛脚を出していた。
彼は姫路の町人たちに、
『河原に出て、粥をこしらえ、諸軍勢に残らず食わせることは可能か?』
と尋ねた。
これに町人たちは、
「筑前様は新しい領主であるので、
我々も何か御馳走を行うべきだと考えていたところです。
何故なら、第一に筑前様は末頼もしきお殿様です。
その上今回は、勘兵衛様のご差配でございます。
いよいよ以って、願うに幸いの所にございます!」
と大いに喜んだ。
そして彼らは鍋・釜・諸道具を河原に持ち出し、
事々しく粥を調理し、数万の軍勢に残らず食わせた。
もちろん町人のうち顔役の者たちは、酒樽に折紙を付け、恭しく秀吉に捧げた。
秀吉は馬上にてこの酒を飲み、
「今回のお前たちの心付け、別して満足に思っている!
よって姫路町中の地子(固定資産税)を、永代赦免する!」
と宣言し、
「今度の御弔い合戦は必ず勝利を得る!
しかるにおいては、ますます褒美を与えるつもりである!
であるから、我々への協力を諸事怠けることの無いよう、
皆で申し合わせるように!」
この秀吉の発言に、姫路の町人たちの喜ぶこと、限りなかったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく

ごきげんよう!