本能寺を知り☆ | げむおた街道をゆく

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天正10年(1582)、備中高松城で対峙していた羽柴秀吉と毛利の軍は、

6月2日、毛利の陣所に黒田官兵衛が派遣され小早川隆景と対面し、

和睦について協議し、現状の領土維持を条件として、
毛利が信長旗下に入ること、吉川、小早川の両川より誓紙を出し、

毛利方より人質を送ることを約束した。
秀吉からも誓紙が出され、いよいよ和議は整った。

 

この時である。

その夜、子の刻(午前0時頃)、

京都にあった織田信長家臣長谷川宗仁より飛脚が来て、

黒田官兵衛に直に対面し、昨2日、京都において、

信長公及び信忠卿を、明智日向守が弑し奉った事を、

密かに語って書状を捧げた。

 

官兵衛はこの飛脚に対し、

「さても汝は早く来たものだ。信長公ご逝去のこと、

絶対に人に語ってはならぬぞ!こちらに来い。」
と手を引いて台所に連れて行き、酒食を与え休息させて、

自身は秀吉の御前に出てその書状を披露した。

このことを知った秀吉の嘆きは深く、

呆然として何も考えられないような様子であった。
 

ここで官兵衛は言った。

「信長公の事は、とにかく言語を絶したものであり、御愁嘆至極の事であります。
しかし、こうなった上は貴方が天下の権柄を取られるのだと認識して下さい!
何故なら、明智日向守は君を弑せし乱臣である以上、

天罰逃れ難く、これを討つのは容易い事です。
信長公の御子息両人(信雄、信孝)は随分御守り立てあるべきですが、

しかしどちらも天下を治めるような御器量ではありませんので、

必ず諸大名はこれを侮り、天下を望み、
謀反乱逆を起こすもの、多く出てくるでしょう。

それを誅罰されれば、貴方の勢い、強くなります。」

秀吉は涙を流していたが、これを聞いて、
「我もそう思う。しかしその計略は、いかがすべきか?」

「昨朝信長公を明智が弑し、

御注進の飛脚京都よりこの地まで70余里の道を1日半夜にて来ること、
これぞ天のお告げであると思われます。

そして本日の昼に毛利との和睦の約束が整っていたことも、
大いなる幸いです。

信長公のことは、明日の昼までは毛利には聞こえないでしょう。
明朝人質を受け取った後なら、この事が毛利に発覚したとしても、

態度を変えることはできなくなります。

人質を受け取った後、
『信長公薨去に付いて、明智誅伐のため上京する。後詰めをお頼みする。』
と仰せ遣わされて、急ぎ攻め上がり明智を誅伐する事こそ然るべきと存じます。」

秀吉はこれを聞き、尤もであると感心した。そして、
「これを知らせた飛脚が、信長公が弑されたことを人に語り、

敵陣にも聞こえてしまってはどうにもならない。急ぎその飛脚を殺せ。」
と命じた。

官兵衛は立って台所に行き、飛脚がくたびれて寝入っていたのを起こし、

自分の陣所に連れて行くと、
「信長公が弑された事は、いよいよ人に語ってはならない。

また、人に合うことも成らない。」
と堅く制して、家人に預け隠し置いた。
 

官兵衛はこう思ったのだ、

『この飛脚が1日半夜で70余里の道を来て信長公のことを告げてくれたのは、
誠に天の使いである。その上、この飛脚には殺すような科はなく、

むしろ早く来た功がある。
世が静かになれば賞を行われるべき者であり、

どうしてこれを殺していいものか。』

そうして殺さず、隠し置いていたのだが、彼は長旅に疲れて飢え、

その後俄に大食したためであろうか、
それからいくほどもなく病死した。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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