信長様の御軍法は、御敵を仕りたる者は、子々孫々までも御果たし、
その跡をも返す程に厳しくいたして、天下を治められた。
内裏の御修理などを仰せ付けられ、王法の衰えたるをも御取り立てた後、
仔細有って上京の騒ぎを払うためとして、
京の地子(固定資産税)を御免に成り、
万事に賞罰正しく仰せ付けられた故に、
万民に至るまで仰ぎ奉らず、という事がなかった。
さりながら、一度御敵仕った者には、
御詫言申し上げて御旗下に成ったとしても、
御心を許されず御憎み浅からず、
それ故に謀反人が多く出たのである。
そういった時は、強いばかりでは成らざる事なのだ。
このような点について、太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、
御敵を仕る者には厳しく仰せ付け、
また詫言申し上げ御旗下に成ったならば、
御譜代同然に、御懇ろに成り、
過去のことに御心を置かれないように成られた。
故に昨日まで御敵を仕った者であっても、
身命を捨て忠節を致すべきと考えるように成るのだ。
故に謀反人も無く、早く天下を御治められた。
この両大将の御軍法は、このように裏腹に違っている。
この心持ちは小身の召使いの者であっても、心得有るべきだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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