織田信長は、二十年あまり、憤怒を抑えていたが、
石山本願寺が和睦し開城すると、
天下はここに平均成った。
すると天正八年、信長は林佐渡守を流罪とした。
彼がかつて、名古屋において信長を謀ろうとした罪によってであった。
また安藤伊賀守を流罪とした。
これは、彼がかつて武田信玄に内通したためであった。
小さなことであっても、自分が恨みに思ったことを、
後に自身が世に盛んになってから、
報復することを考えるのは、おおよそその人に度量があるとはいい難い。
我が身の遺恨故に人を害し、損なおうというのは、大丈夫の心とはいい難い。
織田信長には、こう言った誤りがあった故に、
荒木村重、松永久秀らは安んずること出来ず、
天下に乱逆を成した。
惟任光秀による禍も、この故であると言えるだろう。
一方秀吉は、毛利が柴田と内通し、
室町殿(足利義昭)を再び京に復帰させようとしたことを知りながら、
後に毛利や義昭に対し、聊かもそういった気色を見せなかった。
信長と比べ、その度量大きく違うと言うべきであろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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