ある時、堂上の人と、上北面の侍との間に、事の仔細あって諍論があり、
彼らは佐久間右衛門尉(信盛)と村井長門守(貞勝)に、
その勝敗の決断を請うたが、
「我ら裁断に及び難し。」
と、織田信長に伺いを立てた。
信長は、双方の主張を仔細に聞き、
「さらに衆議し、評定した上で結論するように。」
との旨を仰せ出しになり、佐久間・村井の両人、これを承り、
理の明らかなる人々呼び集めて、
それぞれ評議した結果、堂上の人に道理があるとの結論に至った。
この事に、北面の侍は強く憤り、織田右馬助という人の元に行き、
言を巧みにし非を飾り、種々頼むよし申し上げると、
織田右馬助殿という人は大変心が浅く、
体格もよく頼もしげに見える人物であったので、
是非も考えず信長に対し再三この事を取り申した。
信長は、『いつも物事に雑な人物だが、老いたるを敬うのも礼儀というものだ。』
と思い、
「先ず帰宿されよ。追って返答する」
と言って座敷を立った。
そして、
「このような僻事を重ねて聞かされるのも、私の不明のためだ。」
と、政道の正しからんことを嘆いたが、
『理に従う時は幸いなり、欲に従う時は危うし。』
という言葉を思い出し、
銭轡 はめられたるか右馬助 人畜生とこれをいふらめ
そう一首、狂歌を認め右馬助へと送った。
右馬助はその後より次第に御前遠くなったが、
彼はその後、この轡の狂歌を思うたびに悔しく思い、
ずっと強く恥じていたため、やがて何が理由ということもなく衰病して、
ついに儚くなったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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