打ち続く戦乱の中で、朝廷の財政は困窮していた。
老齢の山科言継が自ら大名達に援助を求めるほどで、
天皇のおわす皇居ですら、
織田信長が修繕するまで酷く荒廃していた。
また外観だけではなく、節会や礼楽もまた廃れていたという。
織田信長はそうした実情を危惧した。
信長はアドバイザーであり、諌臣でもある武井夕庵にしばしば質問し、
夕庵も事にふれて諌言した。
夕庵が言うには、
「朝廷の節会はすっかり絶えてしまって、
中老以下の方々はかつての礼楽を知らず、見たこともないでしょう。
こうして十年余りが過ぎたので、
朝廷の礼楽は跡形もなくなってしまいました。
国家を治めるためには、礼楽が正しくなければいけないというのに、
ああなんと嘆かわしい。」
ということであった。
常々、上下万民を一子として天下をなそう、
と思っていた信長は、
「では、そちが計らうのだ。そうしたことは誰に聞けばよいのか。」
と夕庵に問うた。
夕庵は「なんと言っても老者の方であればご存知でしょう。」と答えた。
信長は「では、その者の言う通りにして、そちと九衛門が計らえ。」と指示した。
そして武井夕庵と菅谷長頼がいろいろと手配した結果、節会が催された。
しかし、長らく行われていなかったため、中老以下の諸卿殿上人の様は、
まるで初めての稽古のようで滑稽だったという。
こうして祭事が再興されたので貴賎問わず、
右府信長公は末世に稀なる大将だと言い合ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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