松永弾正少弼(久秀)は、その嫡子・右衛門佐(久通)と共に計った。
「織田信長は若年の頃より、小勢を以て大軍を砕き、
度々勝利を得たのは、時の運に乗じたのみではない。
武勇も世に超え、智謀も人に優れ、古今に傑出した人なるが故である。
往を以って来を計るに、今後彼の武威はいよいよ四海を覆うだろう。
私が危険に逼迫してから屈服しては、
敵にも味方にも侮られてしまい、それから悔いても意味は無い。
未だ余裕のある内に降参し、和州多聞城を明け渡して偏に忠をなせば、
きっとその益もあるだろう。」
そう議定し、内々に佐久間右衛門尉信盛に遣いし、
この旨を述べると、信盛は早速岐阜に参じて、
これを取り次いだ。
信長は言った。
「松永久秀は武略にも達し、かつ聡明な人物だが、隠れなき佞人である。
己が名利のために計る者は、その威積累する時には、
果たして国家を乱すこと、掌を返すより簡単に行ってしまう。
そのような徒者をどうすべきだろうか?」
佐久間は答えた。
「それは暗君に仕えての事です。
まず御赦免されれば、天下静謐の功も、速やかに成し遂げられるでしょう。」
これに信長も説得され、
「ならば汝が、兎にも角にも計らうように。」
と信盛に任せた。
これによって降参の義は調い、先ず多聞城を請取。
こうして松永父子は、元亀4年4月10日に岐阜に参向し御礼申し上げ、
不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差など進上した。
こうして多聞城には、山岡対馬守を入れ置かれた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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