永禄十二年(1569)五月二十日、
織田信長は、勢州の北畠が上洛しないため征伐するとして、
数万人を率いて彼の国へ発向し、同十一月まで百余日在陣し、
所々の城を攻め破り、或いはまた和議を知れて、
勢州を残らず一統に退治した。
そして直ぐに、同十一月十一日、勢州より上洛し、
この事を将軍・足利義昭に言上した。
公方家は大いに御感有って、國光の御脇差を下賜され、
御暇を賜り帰国して、長陣の疲労を休息し、
大将も士卒も相悦んで越年した。
そのような中、
信長より任命された朝山日乗、村井貞勝、島田秀満の三人の奉行は、
諸公家と相談し、旧式先例を正し、
禁中の御修理の事も三ヶ年で成就したため、今上の御移徒があった。
諸公家、堂上の面々も皆、信長より宅地を修理され、
乱中に領地を奪われた人には、旧規証文の旨に任せて各領地を還付されたため、
朝廷も諸公家も皆々安堵の思いを成し、
「織田弾正忠信長は、近代無双の執権也。」
と、都鄙遠近ではそう美談した。
然れども、京童の曲として、その頃このような一首の落首があった。
「存命は 又信長や忍ばれん 憂と三好ぞ今は恋しき」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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