その頃、尾張国の守護であり、平相国清盛公二十一代の後胤である、
織田上総介平信長は、武道に長じられていたため、
先の駿河国の守護・今川義元を討って三河遠江両国を従え、
次に美濃国の守護・斎藤右兵衛太夫龍興を滅ぼし、
美濃国へ打ち越し、岐阜の城に居給いける。
その後、永禄十年春の頃、信長は数千騎を率いて伊勢国へ発向され、
先手の兵たちは久須の城に押し寄せ攻め立てた。
ところ、城中叶い難く思ったか、降参して先陣を申し請けた。
その他当国の住人等降人に参る輩多かった。
こうして、神戸蔵人(具盛)の家人・山路紀伊守、
子息久丞が立て籠もる高岡城に押し寄せ攻め立て、
町口悉く放火した。
神戸城は北伊勢の要害であるので、
すぐには落とせぬと見てこれより先ずは御勢を引き上げた。
翌永禄十一年の春、また信長は数千騎を率いて北伊勢へ出張し、
高岡まで押し寄せると、北伊勢の侍たちの過半はその味方に参った。
ここに於いて、信長は神戸蔵人太夫方へ使者を以てこう宣った。
『現在、源氏の輩は無道にして国土の乱逆は未絶である。
故に信長は、苟も平氏の苗裔として、
身をくだき朝暮弓箭を放たず、
某逆の輩を討って国土を安んぜんと欲している。
御辺は平家の嫡流である、どうして一家の者と戦うのか。速やかに和睦し給え。
私が聞いている所によると、
御辺は蒲生下総守定秀の娘の腹に一人の息女が有るが、子息は無いという。
私には数多の子供が有る。一人を養子に遣わそう。』
これを聞いて蔵人太夫も、
「仰せの趣忝なし。」
と同意し、直ぐに扱い(和睦)となった。
これによって信長の三男、三七殿といって、
この時十一歳の若君に、幸田彦右衛門を乳人として、
その他岡本太郎左衛門、坂仙斎などという侍たち数多を相副えて、
神戸家への養子に遣わされると、直ぐに祝言は調った。
こうして神戸蔵人太夫、嶺治部少輔、関安芸守を始めとして味方奉れば、
北伊勢の侍たちは一編に従った。
そして上野城には信長の弟である織田上野介殿、安濃城には織田掃部助殿が置かれた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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