信長公の名誉は天下に聞こえた☆ | げむおた街道をゆく

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今川義元の討死により、残る敵どもは、

どうして少しでも溜まることであろうか、

総軍一度に敗北して、四角八方へ崩れ立ち、

後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、
ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。

 

さてもこの合戦の場“桶狭間”というところは山の狭間、

深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、

逃げ行く者どもはいっそうに途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、

首を2つ3つずつ討ち取って、

信長公の御前へ参ったところ、

首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、

御馬の先にその首をもたせ、勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、

早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、

はるばる後陣にいたところで義元の討死と聞き、

馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、

「まことに命は義によって軽し!」

と言い捨てて、義元の討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、

伊井肥後守、笠原等が一所で討死した。

三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。

松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、

関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、

牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を始めとして、

駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。

また3千ともいう説もある。
 

これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 第六天魔王・織田信長、目次

 

 

 

 

 

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