織田信長は、常に、尾張の地が京師に遠く、中原に志を得るのに便ならざるを憂い、
密かに遠望を抱いていた。
信長は桶狭間で今川氏を討った翌永禄四年(1561)四月、
偽って熊野参詣と称し、
近侍のもの八人を具して京に入った。
そこでは彼を信長だと知る者は無く、
彼は京都でつぶさに天下の形勢を観察した。
そして畿内では、足利将軍家の権威は地に落ち、
独り三好長慶のみが権力をほしいままにしていることを見出し、
『いやしくも天下に大志を伸べんと欲すれば、三好と結ぶに如かず。』
と考え、密かに三好の所領である河内高屋の城に行き、
奏者を通してこのように言った。
「それがしは織田上総介信長です。
尾張の本領を、尽く三好家に献上したい。
その上で幸いにも五畿内の内に一偏土を賜ることを得れば、
この信長は正に、手兵5千を以って、
三好公の先陣となるでしょう。」
三好長慶はこれを聞くと大いに喜び、
「信長は稀有の勇士であると聞く。
もし彼が私に属するのであればもはや天下に恐れる所はない。」
と、直ちにその望みを入れようとした。
しかしその家臣である、
松山松謙斎、松永弾正(久秀)等は信長の武勇を恐れ、
百方これに讒言を行い、信長は終にその意を達することなく帰国した。
しかし信長は、これ以降もいよいよ中原への志を募らせたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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