その後、信長公は24歳で、是非義元(今川義元)を討たんと心掛け給えども、
ここに妨げる男あり。
戸部新左衛門(政直)といって、笠寺の辺りを知行する者なり。
能書才学が形式通りの侍で、主君を無二と思って義元に属し、
尾張を義元の国にせんと二六時中謀ることによって、
些細であっても尾張のことを駿河へ書き送った。
これにより信長は心安き寵愛の右筆に、
かの新左衛門の消息(手紙)を多く集めて1年余り習わせなさると、
新左衛門の手跡と違わず。
この時に、右筆は義元に逆心の書状を思うままに書きしたためて、
「織田上総守殿へ。戸部新左衛門」
と上書をし、頼もしき侍を商人として出立させ駿府へと遣された。
義元は運の末であったのか、これを事実であると御思いになり、
かの新左衛門を御呼びになると、
「駿府まで参るに及ばず。」
と、三河吉田で速やかに首を御刎ねになった。
その永禄3年にあたって庚申、しかも七庚申のある歳5月。
信長27の御年で人数は700ばかり。
義元公は人数2万余りを引率して出給う(桶狭間の戦い)。
時に駿河勢が所々へ乱妨(乱取り)に散った隙をうかがい、
味方の真似をして駿河勢に入り混じった。
義元は三河国の僧と路次の傍らの松原で酒盛をしていらっしゃるところへ、
信長は切って掛かり、ついに義元の首を取り給う。
この一戦の手柄によって日本においてその名を得給う。
これでさえも件の戸部新左衛門が存命であれば中々難儀であったろうが、
信長公は智謀深く、陳平と張良が項王の使者を謀ったのと異ならず。
信長公の消息の手立ては24歳の御時なり。
評言すれば、
『籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外に決す(戦略の巧妙なこと。』。
そのため、尾張の諸侍で義元を大敵と称し信長を軽んじた者どもは、
翌日から清洲へ参候して信長を主君と仰ぎ申したのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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