織田信長が鷹狩を好んだのは、ただ逸楽の為ではない。
万民百姓らが愁い申すことなどを、知ろうとする為であった。
されば、これは尾張国海東郡での事だという。
ある時信長はただ一人、地味な格好で鷹を据えたまま在郷を通っていると、
老いた婦人が悲しんでいるのに出くわした。
「一体どうしたのだ?」
信長が尋ねると婦人は、
「これはお侍様、わが家が先祖より所持していた田畑を、里の長に横領されたため、
今このように飢えに至り、何とも涙がそぞろに流れるのです。」
聞いて信長は思った。
『このように邪なことも、近年兵乱が打ち続き、制法と言うこともなく、
ただ明けても暮れても武勇のみを事とするように成ったためだ。
これは、私の罪ではないか!
古人は言った。
おおよそ民において、姦邪、窃盗、非法、妄行といった所業をする者は、
不足があるから生じるのだ。
不足は度無きより生ずる。
度の無き時は、小物は盗みをし大物は奪い尽くして、
それぞれ節義を知らない、などと言い伝わる。』
こうして信長は自らの政道が正しからざるを嘆きつつ帰城し、
人も多い中、丹羽五郎左衛門尉(長秀)を召して、
「百町の里にてしかじかの事があった。急ぎ対応し、世の懲らしめ、
又は式法にも成るように処置せよ。」
そう命じると、丹羽は即座にその里に参り老人(おとな)衆を呼び集め、
事の様子を仔細に尋ね問うて、
先規の如く沙汰すると、かの老婦人、喜ぶこと限りなかった。
立ち帰って信長にこれを報告すると、
「かの里の長は見せしめの為にも、永き先祖の所領を改易し、
かの老婦人に取らせよ。」
と重ねて命じ、そのように計らせた。
これによって信長の領内では日を逐い月を経て、
下の下に至るまで、自ずから淳直になっていくように見えた。
昔、北条時頼が姿を変えて、六十余州をめぐり、摂津国難波の浦に至ったという話があるが、
これなどかくやと思われる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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