信長が、「尾張の大うつけ」と呼ばれていた16歳頃のこと。
付家老たちから「甲州法度之次第」の写しを見せられた。
これは武田晴信が今川家の「今川氏親制定の13か条」を参考にして、
1547年(天文16年)に定めた分国法である。
ちなみに信玄弟・信繁が残した「武田信繁家訓」の要素も加味して、
永禄年間には俗に言う「信玄家法」に発展していく。
普段のうつけさに似合わず真面目に、
「甲州法度之次第」の写しを読んでいる信長。
読み終わった後で信長は言った。
「この晴信の法度を実行すれば皆が厳法に苦しんで乱を好む心配がある。
わしの考えは違う。
武勇の道が行われ策略の道に詳しく国の柱となる武士を望む。
領国の政治は領国の人物を見ればわかるものだ。」と。
その発言を聞き付家老達は、
「まるで三歳の子が髭でも生えたことを申される。」
と涙したとされる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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