織田信長がまだ尾張の大名であったころの話。
弘治元年(1555年)の正月のこと、
清洲城下に奇妙な噂が流れた。
比良東方のあまが池という沼に、
真っ赤な舌と爛々に光る目を持った大蛇が出たというのだ。
それを聞いた信長、好奇心を抑えきれずに、
自ら比良の佐々成政を伴い、
「蛇かへ」
と称して大蛇退治に乗り出した。
付近の村人を総動員し、沼の水をかき出すも、
大蛇は影も形も現れない。
それもそのはず。
大蛇が出るという噂は佐々成政の流した嘘だったのだ。
比良の地は清洲城に隣接しており、
織田家の勢力基盤強化に熱心だった信長に比良を奪われるのを恐れたためとも、
信長の弟・信行に与していたためとも言われる。
それはさておき、成政は大蛇調査のためと偽って信長を小船に乗せ、
護衛を引き離して沼の中央で殺害するという、
どっかの軍師の様なプランを立てていた。
しかし、七分ほどかき出した辺りで、
信長、
「ええい、じれったい!わしが潜るでや!」
ザブンッ
なんと大名である信長自ら口に指物をくわえて沼に潜っていったのだ。
旧暦の正月とはいえ、今で言う2月か3月。
あたりの沼を大名が素潜りし始めたである。
慌てて家臣の中でも水練の達人が後に続いて潜ったものの、
大蛇はやはりいない。
信長は飽きたのか、
沼から上がるとさっさと帰ってしまった。
まさかの寒中水泳&速攻帰宅にさすがの成政も唖然としてしまったのか、
結局暗殺計画は失敗したのだった。
後日、この暗殺計画は信長の知るところとなったが、
成政が処罰されることはなかった。
もしかしたら、
失敗したとはいえ自分の好奇心の強さを計算に入れて、
周到な暗殺計画を立てた成政の知略を惜しんだのかも知れない。
このことに感動したのかは定かではないが、以後佐々一族は
信長の為に粉骨砕身の働きをする。
成政の二人の兄、隼人正と孫介はそれぞれ桶狭間、稲生合戦で戦死。
成政自身は言うまでもなく馬廻衆、黒母衣衆として各地を転戦、
信長政権下では富山城主、越中国主にまでなった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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