さて、信長公は17,8の御歳まで、特別の御遊びをなさらず、
朝暮武芸を御好みになり、日夜合戦の御嗜みであった。
弓の師は市川大介、鉄砲の師は橋本一巴、剣術の師は平田三位で、
この者どもを毎日召し寄せて稽古しなさった。
朝夕、馬に乗りなさったが馬も優れた上手であった。
3月から9月までは、河水の遊びを御好みになり、
たいそうな、水練の達者であった。
その頃、若侍どもを呼びなさり、竹で叩き合わせたのを見なさると、
「とにかく、槍は短き柄は良くないであろう。長柄に優ることはあるまい。」
と、仰せになり、三間柄、あるいは三間半の柄で槍を拵えさせなさった。
その頃、信長の御行儀は甚だもって異相であった。
日頃着なさる帷子の両袖をほどきなさり、半袴や燧袋など、
色々数多のものを身に付けなされた。
御髪は茶筅頭に紅糸、あるいは萌黄糸などで巻き立て結いなさり、
太刀は朱鞘で皆ことごとく赤武者の出で立ちにするよう仰せ付けなさった。
さてまた、鷹狩りを御好みになり、鷹野に出なさる時に毎度町を通りなさると、
人目を少しも憚らず、栗や柿、梨を馬上でかぶり食い、
町中では立ちながら餅などを食い食い通りなさった。
あるいは人に寄り掛かり、または人の肩に取り付き、
連なりぶら下がって通りなさった。
その頃、世間は古風を慕って人は皆公方家の礼義を忘れず、
儀式を好む世であった故、このような異相であったから、
近国や他国は押し並べて、
「織田信長は類なき大うつけ者」
と、申し合った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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